戦国勢力図の人物

徳川家康とくがわ いえやす

1543年〜1616年(数え74歳) / 天下人・江戸幕府初代将軍 / 松平・徳川氏

人質の少年時代から、待って、負けて、耐えて、最後に天下を取り、260年続く世をひらいた。

人質生活から身を起こし、忍耐の末に天下を取った。「鳴くまで待とう時鳥」。

松平・徳川氏の勢力

運命の分かれ目

  1. 1560年5月18歳

    桶狭間のあと、岡崎で独立

    幼いころから今川家の人質として駿府で育った。桶狭間の戦いでは今川軍の先鋒として大高城に兵糧を運び入れたが、義元が討たれると、混乱のなか父祖の城の岡崎城に戻り、今川から離れた。

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  2. 1562年、信長と清洲同盟を結んだ。三河の一向一揆に苦しみながらも三河をまとめ、1566年に名を松平から徳川に改めた。

  3. 1572年12月30歳

    三方ヶ原の戦い

    西へ進む武田信玄の大軍を、浜松城から打って出て迎え撃ち、大敗した。多くの家臣を失い、命からがら浜松城へ逃げ帰った。生涯でもっとも危なかった戦いの一つといわれる。

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  4. 信玄は翌年に病死した。1575年の長篠の戦いで信長とともに武田勝頼を破り、1582年の武田氏の滅亡で駿河を得た。本能寺の変の直後には、堺から伊賀を越えて三河に逃げ帰った。

  5. 1584年4月42歳

    小牧・長久手の戦い

    信長の次男の織田信雄と組んで、羽柴秀吉と戦った。長久手で秀吉方の別働隊を破ったが、信雄が勝手に和睦したため、戦う名目を失った。

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  6. 1586年、秀吉の妹を妻に迎え、上洛して臣従した。1590年の小田原征伐のあと、北条の旧領の関東に移され、江戸を本拠とした。250万石をこえる最大の大名になった。

  7. 1600年9月58歳

    関ヶ原の戦い

    秀吉の死後、五大老の筆頭として力を強め、石田三成らと対立した。会津の上杉攻めの途中で三成の挙兵を知り、西へ引き返して、美濃の関ヶ原で西軍を一日で破った。

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  8. 1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開き、2年後には将軍職を子の秀忠にゆずった。自らは駿府で大御所として政治を動かし続けた。

  9. 1615年5月73歳

    大坂の陣で豊臣氏を滅ぼす

    方広寺の鐘の銘文を口実に大坂城を攻め、冬の陣のあとの和睦で堀を埋めさせた。翌年の夏の陣で、真田信繁らの突撃で本陣が崩れる場面もあったが、大坂城を落として豊臣氏を滅ぼした。翌年4月、駿府で亡くなった。

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年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。

本拠の移り変わり

  1. 1

    岡崎城

    1560年〜1570年(18〜28歳)

    生まれた城。今川からの独立の拠点。

  2. 2

    浜松城

    1570年〜1586年(28〜44歳)

    武田と向き合うために移った城。三方ヶ原の戦いはこの城の北で起きた。

  3. 3

    駿府城

    1586年〜1590年(44〜48歳)

    人質として少年時代を過ごした駿府に、5か国の大名として戻った。

  4. 4

    江戸城

    1590年〜1607年(48〜65歳)

    関東に移されて本拠とした。江戸幕府の城となる。

  5. 5

    駿府城(大御所)

    1607年〜1616年(65〜74歳)

    将軍をゆずったあと、大御所として政治を動かした。

地図は1601年の勢力図に、本拠の位置を重ねたものです。濃い色が松平・徳川氏の勢力です。

通説と実像

よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。

後世の創作

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」

信長・秀吉と性格を言い分けた句で、江戸時代後期の随筆『甲子夜話』に、人が詠んだものとして載っている。

諸説

三方ヶ原の敗戦を忘れないよう、しかめ面の肖像を描かせた

「しかみ像」と呼ばれる絵は残っているが、三方ヶ原の戦いと結びつける話は、近代になってからのものだとする研究がある。

史料にある

本能寺の変のあと、伊賀を越えて逃げ帰った

堺に滞在中に変を知り、わずかな供と伊賀の山道を越えて三河に戻った。家康の家臣の日記などに記録がある。道すじには諸説がある。

諸説

関ヶ原で、小早川秀秋に鉄砲を撃ちかけて寝返りをうながした

「問鉄砲」の話は江戸時代の軍記に見える。近年は、小早川軍は開戦してまもなく寝返っていたとする説も出されている。

諸説

鯛の天ぷらにあたって死んだ

天ぷらを食べて体をこわしたのは1616年1月で、亡くなったのは4月。直接の死因とは考えにくく、胃の病気(胃がん)だったとする説が有力。

数字で見る家康

勢力が最も広かった年1615年33地域・約11万km²(73歳)
そのときの広さ37%この地図の範囲(北海道・沖縄をのぞく日本)のうち。その年の勢力の中で1位
独立してから56年1560年、桶狭間のあと岡崎城に戻り、今川から自立する
地図に記された戦い9回戦国勢力図の出来事のうち、家康の名前が出てくる戦い
本拠を移した回数4回岡崎 → 浜松 → 駿府 → 江戸 → 駿府城(大御所)

広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。

つながり

主役のバトン

← 前の主役豊臣秀吉家康を臣従させ、天下を統一した
徳川家康1543年〜1616年(数え74歳)
次の主役 →徳川秀忠2代将軍。幕府の仕組みを固めた

同じ時代、世界では

アクバルインド・1542年〜1605年・家康より1歳年上ムガル帝国を大きく広げた皇帝。
エリザベス1世ヨーロッパ・1533年〜1603年・家康より10歳年上スペインの無敵艦隊を破ったイングランドの女王。
ヌルハチ中国・1559年〜1626年・家康より16歳年下女真をまとめ、のちの清のもとを築いた。
フェリペ2世ヨーロッパ・1527年〜1598年・家康より16歳年上「太陽の沈まない国」と呼ばれたスペインの王。
李舜臣朝鮮・1545年〜1598年・家康より2歳年下豊臣秀吉の朝鮮出兵で、日本の水軍を破った朝鮮の将軍。
万暦帝中国・1563年〜1620年・家康より20歳年下明の皇帝。秀吉の朝鮮出兵に援軍を送った。

家康が生まれたころの世界

家康が出てくる合戦絵巻

略年譜(戦国勢力図の出来事から)

参考