運命の分かれ目
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1541年6月21歳
父の信虎を追放する
父の武田信虎が、娘の嫁ぎ先の駿河の今川家を訪ねたすきに、国境を閉ざして甲斐に戻れなくした。家臣たちの支持を受けた、血を流さないクーデターだった。21歳で甲斐の主となった。
翌年から信濃に攻め入り、諏訪を手に入れた。
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1548年2月28歳
上田原の戦い ─ はじめての大敗
北信濃の村上義清と上田原で戦い、重臣の板垣信方・甘利虎泰を失って敗れた。2年後の砥石城攻めでも、多くの兵を失う「砥石崩れ」を味わった。
村上義清を調略で追い出して北信濃を手に入れたが、越後に逃れた村上らの訴えで、長尾景虎(のちの上杉謙信)が出てくることになった。1554年には北条・今川と三国同盟を結び、背後を固めた。
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1561年9月41歳
第四次川中島の戦い
川中島で上杉謙信と5度にわたって戦ったうち、最も激しい戦い。霧の中で謙信の軍と鉢合わせし、弟の武田信繁や軍師とされる山本勘助を失った。勝ち負けははっきりしないまま、両軍は兵を引いた。
川中島の戦いは1564年まで続いたが、決着はつかなかった。信玄は西上野に目を向けた。
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1568年12月48歳
同盟を破って駿河へ
桶狭間で義元を失って弱った今川家を見て、三国同盟を破って駿河に攻め込んだ。北条とも敵対することになったが、海のある駿河を手に入れた。この方針に反対した長男の義信は、その前に幽閉され、亡くなっている。
1571年には北条と再び同盟を結んだ。足利義昭や本願寺と結び、信長を囲む動きに加わっていく。
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1572年12月52歳
三方ヶ原の戦い
大軍を率いて西へ向かい、遠江の三方ヶ原で徳川家康を大敗させた。しかし翌年、三河の野田城を落としたあと病が重くなり、甲斐へ引き返す途中の4月、信濃の駒場で亡くなった。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
諸説
「人は城、人は石垣、人は堀」と言った
江戸時代のはじめにまとめられた『甲陽軍鑑』に見える歌。信玄自身の言葉かどうかはわからない。信玄が大きな城を築かず、館に住み続けたのは事実。
諸説
川中島で、謙信と一騎打ちをした
謙信が信玄の本陣に斬り込み、信玄が軍配で受けたという名場面は、『甲陽軍鑑』などの軍記物の話。確かな史料では確かめられない。
史料にある
「風林火山」の旗
『孫子』の一節「疾きこと風の如く…」を書いた旗が、武田家ゆかりの寺に伝わる。ただし「風林火山」という呼び名は、ずっと後の時代に広まったもの。
諸説
武田の騎馬軍団は最強だった
当時の日本の馬は小型で、馬に乗ったまま突撃する専門の部隊がいたかどうかは疑問視されている。武将は馬に乗っても、戦うときは下りることが多かったとする説がある。
諸説
「自分の死を3年隠せ」と遺言した
『甲陽軍鑑』の話。実際には、信玄の死は数か月のうちに周りの大名に知られていた。
数字で見る信玄
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
主役のバトン
信玄が死んだあと
武田氏の勢力は、信玄が死んだ時点で地図の上の7地域。9年後には、武田氏の色の地域はなくなった。死んだ時点の武田氏の地域は、9年後には織田氏が4地域を支配していた。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。家臣の大名の領地は、独立するまで主家の色で示しています。
同じ時代、世界では
信玄が生まれたころの世界
- 1517年ヨーロッパルターの宗教改革
- 1521年アメリカコルテスがアステカ王国を滅ぼす
- 1522年世界マゼラン艦隊が世界一周
- 1526年インドインドにムガル帝国が成立
信玄が出てくる合戦絵巻
略年譜(戦国勢力図の出来事から)
参考
- 笹本正治『武田信玄』(ミネルヴァ日本評伝選)
- 『甲陽軍鑑』