戦国勢力図の人物

織田信長おだ のぶなが

1534年〜1582年(数え49歳) / 天下人 / 織田氏

尾張の小さな大名から、10年あまりで天下の半ばを手に入れた。あと一歩のところで、家臣に討たれた。

桶狭間で名を上げ、室町幕府を滅ぼし、天下統一を目前に本能寺で倒れた。楽市楽座・関所撤廃など革新的な政策で知られる。

織田氏の勢力

運命の分かれ目

  1. 1560年5月27歳

    桶狭間の戦い

    2万をこえる今川義元の大軍が尾張に攻めこんだ。信長は、わずかな兵で今川の本陣を突き、義元を討ち取った。東の大国の今川家はここから崩れはじめ、信長の名は一気に知られた。

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  2. 翌々年、今川から自立した松平元康(のちの徳川家康)と清洲同盟を結び、東の守りを任せた。信長は北の美濃攻めに力を注ぐ。

  3. 1567年8月34歳

    美濃を取り、「天下布武」

    7年かけて美濃の斎藤氏を攻め、稲葉山城を落とした。城を岐阜と名づけ、「天下布武」の印を使いはじめた。尾張と美濃の2か国を合わせ、京をうかがう力を手に入れた。

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  4. 翌年、越前から頼ってきた足利義昭を迎え、上洛の名目を得た。

  5. 1568年9月35歳

    足利義昭を立てて上洛

    足利義昭を将軍に立てて、京にのぼった。わずか1か月ほどで畿内を押さえた。しかし義昭とはやがて対立し、浅井・朝倉・武田・本願寺などが手を結んで、信長を囲むことになる。

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  6. 1570年からの数年は、姉川の戦い、比叡山焼き討ち、本願寺との石山合戦と、四方の敵との戦いが続いた。1573年に武田信玄が病死すると、義昭を京から追い、浅井・朝倉を滅ぼした。

  7. 1575年5月42歳

    長篠の戦い

    徳川家康と組み、三河の設楽原で武田勝頼の軍を破った。馬防柵と多くの鉄砲で、武田の騎馬の突撃を防いだ。信長を苦しめた包囲網は、このころには崩れていた。

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  8. 翌年から琵琶湖のほとりに安土城を築いた。1580年には本願寺と和睦して大坂から退かせ、1582年3月には武田氏を滅ぼした。

  9. 1582年6月49歳

    本能寺の変

    武田氏を滅ぼし、毛利攻めのために西へ向かう途中、京の本能寺に泊まっていた。家臣の明智光秀に囲まれ、自害した。49歳だった。天下統一は、家臣の羽柴秀吉に引き継がれた。

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年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。

居城の移り変わり

  1. 1

    那古野城

    1538年ごろ〜1555年(5〜22歳)

    幼いころに父から与えられた城。「うつけ」と呼ばれた時代を過ごす。

  2. 2

    清洲城

    1555年〜1563年(22〜30歳)

    尾張の守護所。ここから桶狭間へ出陣した。

  3. 3

    小牧山城

    1563年〜1567年(30〜34歳)

    美濃攻めのため、北の小牧山に新しく築いた城。

  4. 4

    岐阜城

    1567年〜1576年(34〜43歳)

    斎藤氏から奪った稲葉山城を改名。「天下布武」の拠点。

  5. 5

    安土城

    1576年〜1582年(43〜49歳)

    琵琶湖のほとりに築いた、天主をもつ壮大な城。本能寺の変のあとに焼けた。

地図は1555年の勢力図に、居城の位置を重ねたものです。濃い色が織田氏の勢力です。

通説と実像

よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。

史料にある

若いころは「うつけ(大ばか者)」と呼ばれた

『信長公記』に、湯帷子の袖を外し、腰に火打ち袋やひょうたんを下げ、町を歩きながら柿や瓜をかじっていたという姿が書かれている。父の葬儀で、抹香を位牌に投げつけた話も同じ本にある。

史料にある

桶狭間の出陣の前に「人間五十年」を舞った

『信長公記』に、出陣の前に幸若舞の「敦盛」の一節「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり」を舞い、湯漬けを食べて出たとある。

諸説

桶狭間は、山を回りこんだ奇襲だった

山の裏から回りこんで本陣を突いたという「迂回奇襲説」は、明治時代の陸軍の戦史で広まった。『信長公記』をもとに、正面から攻めかかったとする説が今は有力だが、決着はついていない。

諸説

長篠の戦いで「鉄砲の三段撃ち」をした

『信長公記』には「鉄砲千挺ばかり」とあるだけで、3列が交代で撃つ三段撃ちは、江戸時代の軍記物に出てくる話。今は疑問視する研究者が多い。

後世の創作

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」

信長・秀吉・家康の性格を言い分けたこの句は、江戸時代後期の随筆『甲子夜話』に、人が詠んだものとして載っている。信長自身の言葉ではない。

史料にある

本能寺で「是非に及ばず」と言った

『信長公記』に、謀反の相手が明智光秀だと聞いて「是非に及ばず(しかたがない)」と言ったとある。作者の太田牛一はその場にいなかったが、逃げのびた女房たちから話を聞いて書いたとされる。

数字で見る信長

勢力が最も広かった年1582年30地域・約7.4万km²(49歳)
そのときの広さ26%この地図の範囲(北海道・沖縄をのぞく日本)のうち。その年の勢力の中で1位
家督を継いでから31年1551年、父・織田信秀の死で、家督を継ぐ(1552年とも)
地図に記された戦い14回戦国勢力図の出来事のうち、信長の名前が出てくる戦い
居城を移した回数4回那古野 → 清洲 → 小牧山 → 岐阜 → 安土

広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。

つながり

主役のバトン

← 前の主役三好長慶信長より前に、京と畿内を押さえた「最初の天下人」
織田信長1534年〜1582年(数え49歳)
次の主役 →豊臣秀吉信長の死から8年で、天下統一をなしとげた

信長が死んだあと

1582年(死んだ時点)
1591年(9年後)
22死
41年後
32年後
23年後
24年後
25年後
26年後
27年後
28年後
09年後
010年後

織田氏の勢力は、信長が死んだ時点で地図の上の22地域。9年後には、織田氏の色の地域はなくなった。死んだ時点の織田氏の地域は、9年後には羽柴・豊臣氏が19地域を支配していた。

死んだ年の勢力図を開く

地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。家臣の大名の領地は、独立するまで主家の色で示しています。

同じ時代、世界では

フェリペ2世ヨーロッパ・1527年〜1598年・信長より7歳年上「太陽の沈まない国」と呼ばれたスペインの王。
エリザベス1世ヨーロッパ・1533年〜1603年・信長より1歳年上スペインの無敵艦隊を破ったイングランドの女王。
アクバルインド・1542年〜1605年・信長より8歳年下ムガル帝国を大きく広げた皇帝。
李舜臣朝鮮・1545年〜1598年・信長より11歳年下豊臣秀吉の朝鮮出兵で、日本の水軍を破った朝鮮の将軍。
スレイマン1世西アジア・1494年〜1566年・信長より40歳年上オスマン帝国の最盛期の皇帝。
ミケランジェロヨーロッパ・1475年〜1564年・信長より59歳年上ダビデ像やシスティーナ礼拝堂の天井画で知られる芸術家。

信長が生まれたころの世界

信長が出てくる合戦絵巻

略年譜(戦国勢力図の出来事から)

参考