合戦絵巻 ─ 戦国勢力図

長篠の戦い(設楽原の戦い)

1575年5月21日(天正3年) / 三河国 設楽原

5月18日〜20日

布陣

1粒=約100人

1575年(天正3年)5月21日、三河国の設楽原(いまの愛知県新城市)で、織田信長・徳川家康の連合軍が、武田勝頼の軍を破った。馬防柵と大量の鉄砲で武田軍の突撃を受け止め、山県昌景・馬場信春ら信玄以来の名将を次々に討ち取った。武田家が滅亡へ向かう転機となった戦いである。

上の観戦プレイヤーでは、織田軍約3.1万と徳川軍約1.3万と武田軍約1.6万、あわせて約6万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

織田軍
約3.1万
徳川軍
約1.3万
武田軍
約1.6万
いつ
5月18日〜20日 → その後

なぜ戦ったのか

1573年、武田信玄は西へ兵を進める途中で病に倒れた。跡を継いだ勝頼は積極的に兵を動かし、1574年には、父の信玄も落とせなかった遠江の高天神城を攻め落とした。

三河の長篠城は、もとは武田方の城だったが、1573年に徳川家康が取り返した。城を任されたのは、武田方から徳川方へ寝返った奥平信昌である。1575年4月、勝頼は1万5千ほどの兵で三河に攻め込み、5月には長篠城を囲んだ。城兵はわずか500ほどだった。

落城が迫るなか、城兵の鳥居強右衛門が城を抜け出して岡崎へ走り、援軍を求めた。帰り道で武田方に捕らえられた強右衛門は、「援軍は来ない」と城に向かって言えば命を助けると言われたが、「援軍はすぐに来る。持ちこたえよ」と叫び、磔にされたと伝えられる。

家康の求めに応じて、信長は3万の兵を率いて岐阜を出た。織田・徳川の連合軍は、長篠城の西の設楽原に着くと、連吾川に沿って三重ともいわれる柵を築き、土を盛って陣を固めた。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

15月18日〜20日

布陣

奥平信昌がわずか500の兵で守る長篠城を、武田勝頼の大軍が包囲していた。救援に来た織田・徳川連合軍3万8千は設楽原に到着すると、連吾川に沿って馬防柵を築き、野戦築城ともいえる陣を構えた。

25月21日 未明

鳶ヶ巣山の奇襲

酒井忠次率いる別働隊4千が、南の山中を大きく迂回して武田方の鳶ヶ巣山砦を夜明けに急襲。砦を落として長篠城を救い出し、武田軍の背後を脅かした。

35月21日 早朝

武田軍の突撃

背後を断たれかねない状況で、勝頼は設楽原の連合軍に正面から攻めかかることを選んだ。左翼の山県昌景は徳川勢に、右翼の馬場信春は佐久間勢に向かって突進した。

4午前〜昼

馬防柵と鉄砲

柵に阻まれた武田勢に、柵の内側から鉄砲が浴びせられる。武田軍は波状攻撃を繰り返し、一部は柵を破ったものの、突破口を広げられなかった。(「三段撃ち」は後世の創作とする見方が有力)

5昼過ぎ

名将たちの討死

徳川勢に攻めかかった山県昌景が銃弾に倒れ、土屋昌続・真田信綱・昌輝兄弟ら武田の名だたる将が次々と討死した。

6午後

武田軍の崩壊

勝頼はついに退却を命じる。殿(しんがり)を務めた馬場信春は勝頼が戦場を離れたのを見届けて討死、内藤昌秀も戦死した。武田軍の死者は1万人ともいわれる。

7その後

戦いの結果

武田氏は信玄以来の宿将の多くを失い、衰退へ向かった。7年後の1582年、織田・徳川軍の甲州征伐で武田氏は滅亡する。

勝敗を分けたもの

野戦築城

連合軍は、ただ柵を立てただけでなく、川と丘を生かして空堀や土塁を組み合わせた陣を築いた。武田軍は川を渡り、坂を上りながら柵に取りつかなければならず、その間に鉄砲や弓で撃たれた。

鳶ヶ巣山の奇襲

決戦の日の未明、酒井忠次の別働隊が武田方の鳶ヶ巣山砦を落とし、長篠城を救った。背後を脅かされた勝頼は、退くよりも、目の前の連合軍に正面から攻めかかる道を選んだ。

兵力の差

武田軍は長篠城の押さえや鳶ヶ巣山の守りにも兵を割いていたため、設楽原で戦ったのは1万ほどだったとされる。3万8千の連合軍に対して、兵の数でも大きく劣っていた。

主な武将とその後

武田勝頼武田軍

信玄の四男。戦上手と評価されることも多いが、この敗戦で多くの重臣を失った。1582年、織田・徳川軍の甲州征伐で追いつめられ、天目山のふもとで自害し、武田家は滅んだ。

織田信長織田軍

岐阜から3万の兵を率いて出陣し、設楽原の極楽寺山に本陣を置いた。この年、朝廷から右近衛大将に任じられ、天下人としての立場を固めていく。

徳川家康徳川軍

三河・遠江をめぐる武田との戦いで苦しんできたが、この勝利で形勢を立て直した。1581年には高天神城を取り返した。

奥平信昌徳川軍

長篠城を守り抜いた城将。信長から「信」の字を与えられ、家康の娘・亀姫を妻に迎えた。

山県昌景武田軍

武田四天王の一人で、赤備えの部隊を率いた猛将。徳川勢に攻めかかり、銃弾に倒れた。

馬場信春武田軍

信玄の代から40年あまり戦場に出ながら、かすり傷ひとつ負わなかったと伝えられる名将。退却する勝頼の殿を務め、勝頼が戦場を離れたのを見届けて討死した。

合戦のあと

武田家は、山県昌景・馬場信春・内藤昌秀・土屋昌続・真田信綱と昌輝の兄弟など、信玄を支えた宿将の多くをこの一日で失った。勝頼はその後も上杉家と同盟を結ぶなどして立て直しを図ったが、1581年に高天神城を見殺しにしたことで家臣や国衆の信頼を失い、翌1582年の甲州征伐で、わずか1か月ほどで滅ぼされた。

東の脅威が薄れた信長は、翌1576年から安土城を築き、越前の一向一揆や石山本願寺との戦いに力を注いだ。

諸説と論点

鉄砲は何挺あったのか

「3000挺の鉄砲」という数字がよく知られるが、これは江戸時代の小瀬甫庵『信長記』によるものである。より信頼できる太田牛一『信長公記』には「千挺ばかり」とあり、その後に書き加えられて「三千挺」となった写本もあるため、どちらが正しいかは議論がある。

「三段撃ち」はあったのか

鉄砲隊を3列に並べ、交代で撃って切れ目なく弾を浴びせたという「三段撃ち」は有名だが、同時代の史料には見えず、後世の創作とする見方が有力である。ただし、多くの鉄砲を集めて柵の内側から撃たせたこと自体は確かとされる。

「武田の騎馬隊」は突撃したのか

武田軍が騎馬武者だけの部隊で突撃したという描き方も、近年は見直されている。当時の武田軍も、ほかの大名と同じく、騎馬と足軽を組み合わせた部隊で戦っていたと考えられている。

「新しい戦術」と「古い戦術」の戦いだったのか

長篠の戦いは、鉄砲という新兵器が騎馬の突撃を打ち破った「戦術革命」として語られてきた。しかし武田軍も鉄砲を持っており、勝敗を分けたのは、兵の数の差と、周到に築かれた陣地だったとする見方も強い。

関連年表

1573年4月武田信玄が死去
1573年徳川家康が長篠城を取り返し、奥平信昌を城将とする
1574年6月武田勝頼が高天神城を落とす
1575年5月勝頼が長篠城を囲む。鳥居強右衛門が援軍を求めに走る
1575年5月21日長篠の戦い(設楽原の戦い)
1576年信長が安土城の築城を始める
1581年3月家康が高天神城を取り返す
1582年3月甲州征伐。武田勝頼が天目山で自害し、武田家が滅ぶ

両軍の陣容

織田軍約3.1万

部隊兵力その後
織田信長総大将約30,000勝利
織田信忠
佐久間信盛
羽柴秀吉
丹羽長秀
滝川一益
鉄砲隊計1,000挺以上
鉄砲隊

徳川軍約1.3万

部隊兵力その後
徳川家康総大将約8,000勝利
大久保忠世
本多忠勝・榊原康政
酒井忠次(別働隊)約4,000
奥平信昌長篠城・約500

武田軍約1.6万

部隊兵力その後
武田勝頼総大将約15,000(全軍)敗走
馬場信春討死・壊滅
真田信綱・昌輝討死・壊滅
土屋昌続討死・壊滅
武田信廉敗走
内藤昌秀討死・壊滅
山県昌景討死・壊滅
鳶ヶ巣山砦武田信実・約1,000討死・壊滅

決め手

馬防柵と鉄砲

柵に阻まれた武田勢に、柵の内側から鉄砲が浴びせられる。武田軍は波状攻撃を繰り返し、一部は柵を破ったものの、突破口を広げられなかった。(「三段撃ち」は後世の創作とする見方が有力)

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「戦国勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:太田牛一『信長公記』、平山優『長篠合戦と武田勝頼』(吉川弘文館)