合戦絵巻 ─ 戦国勢力図

姉川の戦い

1570年6月28日(元亀元年) / 近江国 姉川

6月27日

義弟の裏切り

1粒=約100人

1570年(元亀元年)6月28日、近江国の姉川(いまの滋賀県長浜市)の河原で、織田信長・徳川家康の連合軍が、浅井長政・朝倉景健の連合軍を破った。信長にとっては、妹の夫である長政に裏切られてから初めての決戦だった。浅い川の中で両軍が入り乱れて戦い、川が血で赤く染まったと伝えられる。

上の観戦プレイヤーでは、織田軍約2.3万と徳川軍約5,000と浅井軍約8,000と朝倉軍約8,000、あわせて約4.4万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

織田軍
約2.3万
徳川軍
約5,000
浅井軍
約8,000
朝倉軍
約8,000
いつ
6月27日 → その後

なぜ戦ったのか

北近江の浅井長政は、信長の妹お市の方を妻に迎え、信長と同盟を結んでいた。一方で、浅井家は越前の朝倉家とも古くから親しい関係にあった。

1570年4月、信長は朝倉義景を討つため越前へ攻め入った。ところが金ヶ崎城まで進んだところで、長政が朝倉方について信長の背後を突こうとしていると知らされる。挟み撃ちを恐れた信長は、木下秀吉らを殿に残して、わずかな供だけで京へ逃げ帰った(金ヶ崎の退き口)。

体勢を立て直した信長は、6月に近江へ攻め込み、長政の居城・小谷城の目の前に迫ったあと、南の横山城を囲んだ。徳川家康も援軍に駆けつけた。横山城を救うため、浅井軍と、越前から来た朝倉景健の援軍が出陣し、両軍は姉川をはさんで向かい合った。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

16月27日

義弟の裏切り

信長の妹お市を妻に迎えて同盟を結んでいた浅井長政は、この年の4月、信長が越前の朝倉義景を攻めると、朝倉方について信長の背後を突いた。命からがら京へ逃げ帰った信長は、6月に近江へ攻め入り、浅井の小谷城の南の横山城を囲んだ。

26月28日 早朝

姉川をはさんで

浅井・朝倉の連合軍は夜のうちに大依山を下り、姉川の北岸に陣取った。東の野村に浅井軍、西の三田村に朝倉軍。南岸では、浅井に織田軍が、朝倉に徳川家康の軍が向き合った。

3午前5時頃

開戦

戦いは、徳川軍と朝倉軍のあいだで始まった。両軍は浅い姉川に踏み入って斬り結び、川の水は血で赤く染まったと伝えられる。東では浅井軍も川を渡って織田軍に攻めかかった。

4午前

磯野員昌の猛進

浅井の先鋒・磯野員昌は、織田軍の陣を次々に突き破った。13段に構えた織田の陣のうち11段までを破ったという「姉川の十一段崩し」の話が伝わり、信長の本陣近くまで迫った。坂井政尚の隊は崩れ、その子の久蔵が討死した。

5午前

榊原康政の横槍

西では、数の多い朝倉軍に徳川軍が押されていた。そこへ榊原康政の隊が川上を回りこみ、朝倉軍の横腹を突いた。朝倉軍は崩れ、東では、横山城の押さえにいた稲葉一鉄らが駆けつけて浅井軍の横に回った。

6正午頃

浅井・朝倉軍の敗走

朝倉軍が崩れると、浅井軍も支えきれずに北へ退いた。磯野員昌は佐和山城へ退き、長政は小谷城へ逃げ込んだ。織田・徳川軍は小谷城のふもとまで追ったが、山上の堅い城を落とすことはせず、引き揚げた。

7その後

小谷城の落城まで

横山城は降伏し、木下秀吉が城番に入った。だが浅井・朝倉は比叡山や本願寺と結んで信長を苦しめ続けた(信長包囲網)。小谷城が落ち、長政が自害するのは、3年後の1573年8月のことである。

勝敗を分けたもの

徳川軍の奮戦

数で上回る朝倉軍を相手に、徳川家康の軍は一歩も引かなかった。榊原康政の隊が川上から回りこんで朝倉軍の横を突くと、朝倉軍が崩れ、浅井軍も孤立した。

横山城の押さえ

浅井軍の猛攻で織田軍は押し込まれたが、横山城を囲んでいた稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就らの「美濃三人衆」が駆けつけ、浅井軍の横に回った。兵の余裕の差が、劣勢をはね返した。

決着をつけなかった勝利

戦いには勝ったものの、信長は山上の小谷城を攻め落とすことはしなかった。浅井・朝倉の力は残り、信長はこのあと3年にわたって苦しめられることになる。

主な武将とその後

浅井長政浅井軍

北近江の大名。信長の妹婿でありながら、朝倉家への義理から信長に背いた。1573年、小谷城を囲まれて自害した。お市の方と三人の娘(茶々・初・江)は城から救い出された。

織田信長織田軍

37歳。浅井・朝倉に加えて、本願寺や比叡山とも敵対し、四方を敵に囲まれる苦しい時期を迎える。

徳川家康徳川軍

29歳。信長の同盟者として援軍に駆けつけた。のちに江戸幕府が編んだ記録では、この戦いでの徳川軍の活躍が大きく取り上げられている。

磯野員昌浅井軍

浅井家の勇将で、佐和山城の城主。織田軍の陣を深く突き破ったと伝わる。のちに佐和山城を囲まれて信長に降った。

朝倉景健朝倉軍

朝倉義景の一族で、朝倉軍の総大将。義景は自ら出陣しなかった。景健は1573年の朝倉家滅亡のあと信長に降った。

榊原康政徳川軍

徳川四天王の一人。この戦いで朝倉軍の横を突き、勝利のきっかけを作ったとされる。

合戦のあと

横山城は戦いのあと降伏し、木下秀吉が城番として入った。秀吉はここを足がかりに浅井家の家臣を味方に引き入れていく。

しかし浅井・朝倉は、石山本願寺や比叡山延暦寺と手を結び、9月には近江の坂本まで攻め込んだ(志賀の陣)。信長は1571年に比叡山を焼き討ちし、1573年8月、朝倉義景を越前で滅ぼすと、すぐに小谷城を攻め落とした。長政は自害し、浅井家も滅んだ。

諸説と論点

「姉川の戦い」という名前

「姉川の戦い」は徳川方の呼び名で、浅井方では「野村合戦」、朝倉方では「三田村合戦」と呼んだ。それぞれが戦った場所の名前で呼んでいるのである。

「十一段崩し」はあったのか

磯野員昌が13段構えの織田軍のうち11段を破ったという話は、江戸時代の軍記『浅井三代記』などによるもので、誇張や脚色が多いとみられている。浅井軍が奮戦して織田軍を押し込んだことは確かとされる。

徳川の活躍は大きすぎる?

戦いの経過を詳しく伝える記録の多くは、江戸時代に徳川方の目線でまとめられたもので、家康や榊原康政の手柄が強調されている可能性がある。信長の家臣の太田牛一による『信長公記』の記述はごく短い。

関連年表

1567年ごろ浅井長政がお市の方を妻に迎える
1568年9月信長が足利義昭を奉じて上洛
1570年4月金ヶ崎の退き口。浅井長政が信長に背く
1570年6月28日姉川の戦い
1570年9月志賀の陣。石山合戦が始まる
1571年9月信長が比叡山を焼き討ち
1573年8月朝倉家・浅井家が滅ぶ

両軍の陣容

織田軍約2.3万

部隊兵力その後
織田信長総大将約10,000勝利
坂井政尚約3,000敗走
池田恒興約3,000
木下秀吉・柴田勝家ら約6,000
稲葉一鉄約1,000

徳川軍約5,000

部隊兵力その後
徳川家康総大将約4,000勝利
榊原康政約1,000

浅井軍約8,000

部隊兵力その後
浅井長政総大将約3,500敗走
磯野員昌約1,500敗走
浅井政澄・阿閉貞征ら約3,000敗走

朝倉軍約8,000

部隊兵力その後
朝倉景健総大将約5,000敗走
朝倉景紀ら約3,000敗走

決め手

榊原康政の横槍

西では、数の多い朝倉軍に徳川軍が押されていた。そこへ榊原康政の隊が川上を回りこみ、朝倉軍の横腹を突いた。朝倉軍は崩れ、東では、横山城の押さえにいた稲葉一鉄らが駆けつけて浅井軍の横に回った。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「戦国勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:太田牛一『信長公記』、太田浩司『浅井長政と姉川合戦』(サンライズ出版)