13月〜4月
余呉湖をはさんで
信長の後継をめぐって、羽柴秀吉と柴田勝家の対立は戦いになった。雪どけを待って越前から南下した勝家は、余呉湖の北の山々に陣を構えた。秀吉方も湖の東の山に砦を連ねて向かい合い、どちらも手を出せないまま1か月あまりが過ぎた。
合戦絵巻 ─ 戦国勢力図
3月〜4月
1583年(天正11年)4月20日から21日にかけて、近江国の余呉湖のまわり(いまの滋賀県長浜市)で、羽柴秀吉の軍が柴田勝家の軍を破った。信長亡きあとの織田家の主導権をめぐる戦いで、勝った秀吉は名実ともに信長の後継者となった。「賤ヶ岳の七本槍」の活躍でも知られる。
上の観戦プレイヤーでは、羽柴軍約3万と柴田軍約2.3万、あわせて約5.3万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
山崎の戦いで明智光秀を討った羽柴秀吉は、清洲会議で織田家の主導権を握った。これに強く反発したのが、織田家の筆頭家老・柴田勝家である。勝家は信長の妹のお市の方を妻に迎え、信長の三男・織田信孝や伊勢の滝川一益と結んで、秀吉に対抗した。
1582年の冬、勝家の本拠・越前は雪に閉ざされた。秀吉はそのすきに、勝家の甥の柴田勝豊が守る長浜城を降し、岐阜の信孝も降伏させた。1583年3月、雪どけを待ってようやく南下した勝家は、近江の柳ヶ瀬に本陣を置き、余呉湖の北の山々に陣を連ねた。
秀吉も兵を出し、余呉湖の東から南の山々に砦を築いて向かい合った。両軍とも堅い陣に構えたまま、1か月あまり、どちらも手を出せなかった。
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13月〜4月
信長の後継をめぐって、羽柴秀吉と柴田勝家の対立は戦いになった。雪どけを待って越前から南下した勝家は、余呉湖の北の山々に陣を構えた。秀吉方も湖の東の山に砦を連ねて向かい合い、どちらも手を出せないまま1か月あまりが過ぎた。
24月20日 未明
岐阜の織田信孝が再び兵を挙げたため、秀吉は大軍を連れて美濃の大垣へ向かっていた。その留守を突いて、佐久間盛政が余呉湖の西を回りこみ、大岩山砦を急襲した。守将の中川清秀は討死し、岩崎山の高山右近も砦を捨てて退いた。
34月20日 夕刻
大垣で知らせを受けた秀吉は、すぐに引き返した。沿道の村々に松明と握り飯を用意させ、大垣から木之本までの52kmを5時間ほどで駆け抜けたといわれる。琵琶湖を舟で渡ってきた丹羽長秀も、賤ヶ岳の砦の救援に駆けつけた。
44月20日 深夜
勝家からは「深入りせず、すぐ戻れ」と命じられていたが、盛政は大岩山にとどまっていた。木之本の方に連なる松明の大軍を見て、盛政はようやく引き揚げにかかった。殿は柴田勝政の隊がつとめた。
54月21日 未明
秀吉は賤ヶ岳の砦に入り、退いていく柴田勢に一斉に襲いかかった。この戦いで手柄を立てた福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元の7人が、のちに「賤ヶ岳の七本槍」とたたえられる。柴田勝政は討死した。
64月21日 朝
盛政の隊が必死に踏みとどまっていたその時、後ろに控えていた前田利家の隊が、戦わずに戦場を離れた。利家は勝家の与力だったが、秀吉とも若いころからの友だった。動揺が広がって佐久間隊は崩れ、勝家の本陣も総崩れとなった。
7その後
勝家は越前の北ノ庄城へ逃げ帰り、3日後の4月24日、追ってきた秀吉の軍に囲まれて、妻のお市の方とともに天守に火を放って自害した。佐久間盛政は捕らえられて処刑された。利家は秀吉に従い、のちに豊臣政権の重鎮となる。
岐阜の信孝が再び兵を挙げると、秀吉はその討伐に向かって大垣にいた。佐久間盛政が大岩山を奪ったとの知らせを受けると、秀吉は大垣から木之本までの52kmを5時間ほどで駆け戻った。盛政が退く前に、秀吉は戦場に戻ってきた。
大岩山を落とした盛政は、勝家から引き返すよう何度も命じられながら、その場にとどまったと伝わる。敵中深くに取り残された佐久間隊は、戻ってきた秀吉の大軍に退路を襲われた。
勝敗を決めたのは、柴田方の前田利家が戦わずに兵を引いたことだった。利家は勝家の配下として北陸で戦ってきたが、秀吉とは若いころからの友でもあった。後ろの前田隊が退くのを見て、柴田軍は総崩れになった。
47歳。この勝利で信長の後継者としての立場を確かなものにし、同じ年に大坂城の築城を始めた。翌年の小牧・長久手の戦いを経て、1585年に関白となる。
62歳。「鬼柴田」と呼ばれた織田家随一の猛将。北ノ庄城に戻り、妻のお市の方とともに自害した。お市の三人の娘、茶々・初・江は城から助け出された。
勝家の甥で、「鬼玄蕃」と呼ばれた猛将。大岩山を攻め落としたが、戦いのあと捕らえられた。秀吉から家臣になるよう勧められたが断り、処刑されたと伝わる。
勝家の与力として戦場にいたが、兵を引いた。戦いのあと秀吉に従い、加賀を与えられて、のちに豊臣政権の五大老の一人となる。
大岩山の砦を守っていたが、佐久間盛政の奇襲を受けて討死した。山崎の戦いでは秀吉方として戦っていた。
秀吉子飼いの若い武将たち。この戦いで手柄を立てて「七本槍」とたたえられ、のちに大名へと出世していく。
北ノ庄城は4月24日に落ち、勝家は自害した。勝家と結んでいた織田信孝も、兄の信雄によって尾張で自害させられ、伊勢の滝川一益も降伏した。信長の家臣団の中で、秀吉に正面から逆らえる者はいなくなった。
同じ年の9月、秀吉は石山本願寺の跡地に大坂城を築きはじめる。信長の天下は、こうして秀吉の手に移っていった。
「七本槍」として名前が挙がるのは、福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元の7人だが、実際に感状(手柄をほめる書状)を受けたのは、石河兵助などを加えた9人ほどだったとされる。「七本槍」の呼び名はのちに整えられたものらしい。
利家が秀吉と前もって通じていたのか、戦況を見て兵を引いただけなのかははっきりしない。戦いのあと、勝家は北ノ庄へ逃げる途中で利家の府中城に立ち寄り、これまでの労をねぎらって別れたという話も伝わっている。
大垣から木之本まで、大軍が5時間ほどで駆け戻ったという話は、軍記物の記述によるもので、誇張もあると考えられる。それでも、秀吉が驚くほどの速さで戻ってきたことは確かで、沿道の村に松明や食べ物を用意させたという工夫がよく知られている。
| 1582年6月 | 本能寺の変・山崎の戦い |
|---|---|
| 1582年6月27日 | 清洲会議 |
| 1582年12月 | 秀吉が長浜城を降し、岐阜の織田信孝を降伏させる |
| 1583年3月 | 柴田勝家が近江の柳ヶ瀬に出陣 |
| 1583年4月20日〜21日 | 賤ヶ岳の戦い |
| 1583年4月24日 | 北ノ庄城が落ち、勝家とお市の方が自害 |
| 1583年9月 | 秀吉が大坂城の築城を始める |
| 1584年3月〜 | 小牧・長久手の戦い |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 羽柴秀吉総大将 | 約15,000 | 勝利 |
| 羽柴秀長 | 約10,000 | |
| 中川清秀(大岩山砦) | 約1,000 | 討死・壊滅 |
| 高山右近(岩崎山砦) | 約1,000 | 敗走 |
| 桑山重晴(賤ヶ岳砦) | 約1,000 | |
| 丹羽長秀 | 約2,000 | |
| 福島正則・加藤清正ら(七本槍) | 約500 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 柴田勝家総大将 | 約7,000 | 討死・壊滅 |
| 佐久間盛政 | 約8,000 | 敗走 |
| 柴田勝政 | 約3,000 | 討死・壊滅 |
| 前田利家 | 約5,000 |
決め手
盛政の隊が必死に踏みとどまっていたその時、後ろに控えていた前田利家の隊が、戦わずに戦場を離れた。利家は勝家の与力だったが、秀吉とも若いころからの友だった。動揺が広がって佐久間隊は崩れ、勝家の本陣も総崩れとなった。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「戦国勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:大村由己『柴田合戦記』、小瀬甫庵『太閤記』