11545年秋〜
8万に囲まれた城
関東では、新しく伸びてきた北条氏と、古くからの関東管領・上杉氏とが争っていた。山内上杉憲政と扇谷上杉朝定は手を組み、さらに古河公方の足利晴氏まで引き入れて、8万ともいわれる大軍で北条方の河越城を囲んだ。城を守る北条綱成の兵は3千ほど。包囲は半年に及んだ。
合戦絵巻 ─ 戦国勢力図
1545年秋〜
1546年(天文15年)4月20日の夜、武蔵国の河越城(いまの埼玉県川越市)のまわりで、北条氏康の軍が、両上杉家と古河公方の連合軍を夜襲で破った。8万ともいわれる大軍に半年も囲まれていた城を、わずか8千ほどの兵で救った戦いで、関東の勢力図を一夜で塗り替えた。厳島・桶狭間と並んで「日本三大奇襲」に数えられることがある。
上の観戦プレイヤーでは、北条軍約1.1万と両上杉・古河公方の連合軍約8万、あわせて約9.1万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
戦国時代の関東では、室町幕府の出先である古河公方と、それを補佐する関東管領の山内上杉家、その一族の扇谷上杉家が、古くから力を持っていた。そこへ、伊豆・相模から勢力を伸ばしてきたのが、伊勢宗瑞(北条早雲)に始まる北条家である。
北条家の2代目・氏綱は、1537年に扇谷上杉家から武蔵の河越城を奪った。1541年に氏綱が亡くなり、若い氏康が跡を継ぐと、これを好機と見た山内上杉憲政と扇谷上杉朝定は手を組み、さらに古河公方の足利晴氏まで味方に引き入れた。
1545年秋、連合軍は河越城を大軍で囲んだ。城を守るのは、氏康の義弟・北条綱成と3千ほどの兵。氏康は、西の駿河で今川義元とも争っており、すぐには救援に向かえなかった。包囲は半年に及んだ。
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11545年秋〜
関東では、新しく伸びてきた北条氏と、古くからの関東管領・上杉氏とが争っていた。山内上杉憲政と扇谷上杉朝定は手を組み、さらに古河公方の足利晴氏まで引き入れて、8万ともいわれる大軍で北条方の河越城を囲んだ。城を守る北条綱成の兵は3千ほど。包囲は半年に及んだ。
21546年4月
北条氏康は8千ほどの兵で救援に向かったが、正面から戦える数ではなかった。氏康は「城兵の命を助けてくれれば城を明け渡す」と連合軍に申し入れ、兵を少し退くことまでしてみせた。勝ちを確信した連合軍の陣には、油断が広がった。
34月20日 夜半
夜半、氏康は兵を4つに分け、重い鎧を脱がせ、敵か味方かを見分ける合言葉を決めて、扇谷上杉の陣に夜襲をかけた。「首は取らず、斬り捨てにせよ」と命じたと伝わる。寝込みを襲われた陣は大混乱となり、上杉朝定は討死した。
44月20日 深夜
北条勢はそのまま山内上杉の陣へなだれ込んだ。暗闇の中で同士討ちも起き、山内上杉の軍は崩れた。憲政は戦場を逃れて上野の平井城へ逃げ帰り、重臣の多くが討ち取られた。
54月21日 夜明け前
城の中で物音を聞いた北条綱成は、城門を開いて打って出た。「勝った、勝った」と叫びながら古河公方の陣に攻めかかり、足利晴氏の軍も古河へ逃げ帰った。8万の大軍は一夜のうちに散り散りになった。
6その後
扇谷上杉家は朝定の死で滅びた。山内上杉憲政も力を失い、1552年には越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って落ちのびる。北条氏は武蔵を手に入れ、関東の覇者への道を歩み出した。厳島の戦い・桶狭間の戦いとともに「日本三大奇襲(夜戦)」に数えられることがある。
氏康は、城兵の命を助けてくれれば城を明け渡すと申し入れ、贈り物まで届けて下手に出たと伝わる。兵を少し退いてみせると、連合軍は北条には戦う力がないと考え、陣の守りをゆるめた。
氏康は兵に重い鎧を脱がせて身軽にし、白い布などの目印で敵味方を見分けさせた。首を取る手間を省いて、ひたすら斬り進むよう命じたという。暗闇の中で、大軍の連合軍は数の力を生かせなかった。
城の外で戦いが始まると、城の中にいた北条綱成が打って出た。外の氏康と内の綱成に挟まれた連合軍は、どちらから攻められているのかもわからないまま崩れた。綱成と城を結ぶ連絡には、綱成の弟の福島勝広が敵陣をくぐり抜けて活躍したと伝わる。
北条家3代目。32歳。この勝利で武蔵を手に入れ、関東の覇者への道を開いた。のちに上杉謙信・武田信玄とも渡り合い、「相模の獅子」と呼ばれた。
氏康の義弟で、河越城を半年守り抜いた。「地黄八幡」と書いた旗を掲げ、戦場で「勝った、勝った」と叫んで突き進んだと伝わる猛将。
扇谷上杉家の当主。22歳でこの戦いに討死し、扇谷上杉家は滅んだ。
関東管領・山内上杉家の当主。上野へ逃げ帰ったが力を失い、1552年、越後の長尾景虎を頼って落ちのびた。のちに景虎に上杉の名と関東管領の職を譲る。
古河公方。母方の縁で北条家とも結んでいたが、この戦いでは上杉方についた。敗戦のあと北条家に押さえこまれ、のちに幽閉された。
扇谷上杉家は朝定の死で滅び、北条家は武蔵の大部分を手に入れた。山内上杉家も力を失い、上野の平井城を追われた憲政は、越後の長尾景虎のもとへ逃れた。
これが、のちの上杉謙信の関東出兵の始まりとなる。1561年、景虎は10万ともいわれる大軍で小田原城を囲み、憲政から上杉の名跡と関東管領の職を譲られた。河越夜戦は、北条と上杉の長い戦いの出発点でもあった。
河越夜戦の詳しい経過を伝えるのは、主に江戸時代にまとめられた『北条記』『関八州古戦録』などの軍記で、当時の手紙や記録はごくわずかしか残っていない。「8万対8千」という兵力や、夜襲の細かな様子には、脚色が入っている可能性がある。
戦いが夜襲だったことは広く信じられているが、同時代の史料で詳しく確かめられるわけではない。氏康が河越で連合軍を破り、上杉朝定が討死したことは、確かな事実とされている。
桶狭間・厳島・河越を「日本三大奇襲」や「三大夜戦」と呼ぶことがあるが、昔からの決まった呼び名ではない。いずれも少ない兵で大軍を破った戦いとして、後世に並べて語られるようになった。
| 1537年 | 北条氏綱が扇谷上杉家から河越城を奪う |
|---|---|
| 1541年 | 氏綱が死去し、氏康が跡を継ぐ |
| 1545年秋 | 両上杉・古河公方の連合軍が河越城を囲む |
| 1546年4月20日 | 河越夜戦。上杉朝定が討死 |
| 1552年 | 上杉憲政が越後の長尾景虎を頼る |
| 1561年 | 長尾景虎が小田原城を囲み、関東管領となる |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 北条氏康総大将 | 約8,000 | 勝利 |
| 北条綱成 | 約3,000 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 上杉朝定(扇谷) | 約20,000 | 討死・壊滅 |
| 上杉憲政(山内)総大将 | 約30,000 | 敗走 |
| 足利晴氏(古河公方) | 約30,000 | 敗走 |
決め手
夜半、氏康は兵を4つに分け、重い鎧を脱がせ、敵か味方かを見分ける合言葉を決めて、扇谷上杉の陣に夜襲をかけた。「首は取らず、斬り捨てにせよ」と命じたと伝わる。寝込みを襲われた陣は大混乱となり、上杉朝定は討死した。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「戦国勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:『北条記』、『関八州古戦録』