15月18日
前夜
今川義元は沓掛城に入った。夜、先鋒の松平元康(のちの徳川家康)が、織田方の砦に囲まれた大高城へ兵糧を運び入れることに成功する。織田方は鳴海城・大高城を砦で包囲していた。
合戦絵巻 ─ 戦国勢力図
5月18日
1560年(永禄3年)5月19日、尾張国の桶狭間(いまの愛知県名古屋市緑区・豊明市のあたり)で、尾張の織田信長が、駿河・遠江・三河を治める今川義元を討ち取った。兵の数で大きく劣る信長が大大名の総大将を討ったこの戦いは、信長が天下へ名を上げる出発点となり、今川家の没落と、松平元康(のちの徳川家康)の独立を招いた。
上の観戦プレイヤーでは、織田軍約3,300と今川軍約9,500、あわせて約1.3万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの8つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
今川義元は、駿河・遠江に加えて三河を支配下に置き、「海道一の弓取り」と呼ばれた東海道随一の大名だった。一方の織田信長は、父・信秀の死後に家督を継いだものの、一族や家臣の反乱に悩まされ、1559年ごろにようやく尾張をほぼまとめたばかりだった。
尾張と三河の境では、鳴海城と大高城が今川方の手に落ちていた。信長はこれを取り戻そうと、鳴海城のまわりに丹下・善照寺・中島の砦を、大高城のまわりに丸根・鷲津の砦を築いて封じ込めた。孤立しかけた二つの城を救い、国境を押し広げることが、義元の出陣の大きな目的だったと考えられている。
義元は5月12日に大軍を率いて駿府を出発し、18日には沓掛城に入った。兵の数は2万5千とも4万ともいわれ、『信長公記』は4万5千と記す。対する信長が動かせた兵は、多く見ても数千だった。
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15月18日
今川義元は沓掛城に入った。夜、先鋒の松平元康(のちの徳川家康)が、織田方の砦に囲まれた大高城へ兵糧を運び入れることに成功する。織田方は鳴海城・大高城を砦で包囲していた。
25月19日 未明
夜明けとともに、松平元康が丸根砦を、朝比奈泰朝が鷲津砦を攻撃。両砦は陥落し、守将の佐久間盛重・織田秀敏は討死した。
3早朝
報せを受けた信長は「人間五十年…」と「敦盛」を舞うと、わずかな供回りだけで清洲城を飛び出した。熱田神宮で戦勝を祈願しながら、後を追ってくる兵を待った。
4午前
義元は沓掛城を出て大高城方面へ進み、桶狭間山で休息をとった。砦陥落の報に上機嫌となり、謡をうたわせたとも伝わる。
5正午頃
信長は善照寺砦に入る。これに先立って佐々政次・千秋季忠の300ほどが今川勢に突撃したが、討ち取られた。
6午後1時頃
信長は家臣の制止を振り切って最前線の中島砦へ進み、そこから出撃した。折から石や氷を投げつけるような激しい豪雨となり、今川勢は織田軍の接近に気づかなかった。
7午後2時頃
雨が上がると同時に、信長は「かかれ」と叫んで今川本陣へ突入した。義元は300騎ほどに守られて退こうとしたが、服部小平太に斬りつけられ、毛利新介に討ち取られた。
8その後
総大将を失った今川軍は総崩れとなって駿河へ退いた。大高城にいた松平元康は今川家を離れて岡崎城へ戻り、独立への道を歩みはじめる。
今川方は丸根・鷲津の砦を落としたが、そのために兵を各地に分け、義元の本陣を守る兵は5千ほどになっていた。大軍であっても、本陣のまわりにいる兵はそれほど多くなかった。
信長が中島砦から出撃すると、石や氷を投げつけるような激しい雨が降った。今川勢は織田軍の接近に気づかず、雨が上がると同時に信長は本陣へ攻めかかった。天候が信長に味方したことは、『信長公記』にもはっきり書かれている。
信長は、砦を救うことや今川の先鋒を追い払うことよりも、義元の本陣そのものを目指した。総大将が討たれた今川軍は、ほかの部隊がまだ戦えたにもかかわらず、総崩れとなって退いた。
今川家の当主。太原雪斎の補佐のもとで領国を広げ、分国法「今川仮名目録」に追加法を加えるなど、政治にもすぐれた大名だった。42歳で討たれ、後世「公家かぶれで油断した大名」と描かれたが、これは後の時代に作られた姿といわれる。
27歳。この勝利で尾張の支配を固め、1567年に美濃を攻め取って岐阜に移り、翌年には足利義昭を奉じて京にのぼった。
今川方として大高城への兵糧入れと丸根砦攻めで手柄を立てた。義元の死後、今川家を離れて岡崎城に入り、1562年に信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。
信長の馬廻り。服部小平太(一忠)が斬りつけたあと、義元の首を取った。義元に指を食いちぎられたという話も伝わる。
義元の子。父の死後、三河の離反を止められず、1568年に武田信玄と徳川家康に攻められて駿河・遠江を失った。のちに家康の庇護を受けて生き延びた。
総大将を失った今川家は、急速に力を失った。三河では松平元康が独立し、今川方の国衆も次々に離れていった。1568年末に武田信玄が駿河に、徳川家康が遠江に攻め込み、翌1569年に掛川城が開城して、戦国大名としての今川家は滅んだ。
東の脅威がなくなった信長は、1562年に元康と同盟を結んで背後を固め、美濃の斎藤氏との戦いに力を注いだ。1567年に稲葉山城を落として美濃を手に入れ、「天下布武」の印を使いはじめる。桶狭間の勝利は、この道のりの第一歩だった。
かつては、信長が大きく山道を迂回し、谷間で休む今川本陣を背後から奇襲したとされてきた。この説は江戸時代の小瀬甫庵『信長記』や、明治の参謀本部『日本戦史 桶狭間役』で広まったものである。近年は、より信頼できる太田牛一『信長公記』の記述から、信長は中島砦から東へまっすぐ進み、雨にまぎれて正面から攻めかかったとする見方が有力になっている。
義元は京にのぼって天下に号令するつもりだった、という説明は長く通説だった。しかし当時の状況や文書からは、尾張との国境の城を救い、尾張の一部を支配下に入れることが目的だったとする見方が強まっている。
義元が陣を置いた「桶狭間山」の場所ははっきりしない。名古屋市緑区と豊明市の両方に、義元の最期の地とされる史跡がある。
今川軍2万5千〜4万5千、織田軍2千〜5千など、両軍の兵力には大きな幅がある。この絵巻の数字は、よく使われる概数である。
| 1559年 | 信長が岩倉城を落とし、尾張をほぼまとめる |
|---|---|
| 1560年5月12日 | 今川義元が駿府を出陣 |
| 1560年5月18日 | 義元が沓掛城に入る。松平元康が大高城に兵糧を入れる |
| 1560年5月19日 | 桶狭間の戦い。今川義元が討死 |
| 1560年5月23日 | 松平元康が岡崎城に入る |
| 1562年 | 信長と元康が同盟を結ぶ(清洲同盟) |
| 1567年 | 信長が美濃の稲葉山城を落とし、岐阜と改める |
| 1568年9月 | 信長が足利義昭を奉じて京にのぼる |
| 1569年5月 | 掛川城が開城し、今川家が戦国大名として滅ぶ |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 織田信長総大将 | 約2,000〜3,000 | 勝利 |
| 佐々政次・千秋季忠 | 約300 | 討死・壊滅 |
| 丸根砦(佐久間盛重) | 約500 | 討死・壊滅 |
| 鷲津砦(織田秀敏) | 約500 | 討死・壊滅 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 今川義元総大将 | 本陣 約5,000 | 討死・壊滅 |
| 今川先鋒 | 敗走 | |
| 岡部元信 | 鳴海城 | 敗走 |
| 松平元康 | 約2,500 | |
| 朝比奈泰朝 | 約2,000 | 敗走 |
決め手
雨が上がると同時に、信長は「かかれ」と叫んで今川本陣へ突入した。義元は300騎ほどに守られて退こうとしたが、服部小平太に斬りつけられ、毛利新介に討ち取られた。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「戦国勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:太田牛一『信長公記』、藤本正行『桶狭間の戦い ─ 信長の決断・義元の誤算』(洋泉社)