19月15日 未明
布陣
前夜の雨の中、西軍は大垣城を出て関ヶ原に移り、周囲の山々に「鶴翼の陣」を敷いた。後を追った東軍は、その内側に入り込む形で布陣した。夜明けの盆地は濃い霧に包まれていた。
合戦絵巻 ─ 戦国勢力図
9月15日 未明
1600年(慶長5年)9月15日、美濃国関ヶ原(いまの岐阜県関ケ原町)で、徳川家康を中心とする東軍と、石田三成らが中心の西軍がぶつかった。両軍あわせて15万前後とされる大軍の戦いは、朝に始まり、わずか半日ほどで決着した。この勝利によって家康は天下の実権をにぎり、3年後に江戸幕府を開く。
上の観戦プレイヤーでは、東軍約7.8万と西軍約7.7万、あわせて約16万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの9つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
1598年(慶長3年)8月、豊臣秀吉が伏見城で亡くなった。跡継ぎの秀頼はまだ6歳。政治は、有力大名の「五大老」と、実務を担う「五奉行」に託された。
五大老の筆頭の徳川家康は、秀吉の遺命で禁じられていた大名どうしの勝手な縁組を進めるなど、力を強めていく。これに反発したのが、五奉行の一人の石田三成だった。1599年に家康と並ぶ重鎮の前田利家が亡くなると、三成は、朝鮮出兵のころから三成と対立していた加藤清正・福島正則ら7人の武将に襲われかけ、奉行を退いて近江の佐和山城に引きこもった。
1600年6月、家康は、会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、諸大名を率いて東へ出陣した(会津征伐)。その留守を突いて、三成は大谷吉継らと挙兵する。毛利輝元を総大将として大坂城に迎え、家康の罪を並べた書状(「内府ちかひの条々」)を諸大名に送った。西軍は8月1日に家康方の伏見城を落とした。
下野の小山にいた家康は、従っていた諸将と今後を話し合い(小山評定)、軍を西へ返した。福島正則らの東軍の先発隊は8月23日に岐阜城を落とし、家康も9月1日に江戸を出発した。一方、中山道を進んだ家康の子・秀忠の本隊約3万8千は、信濃の上田城で真田昌幸に足止めされ、決戦に間に合わなかった。
9月14日、家康は大垣城に籠もる西軍の目と鼻の先、赤坂の岡山に本陣を置いた。その夜、西軍は大垣城を出て、雨の中を関ヶ原へ移る。家康が大垣を素通りして、三成の佐和山城、さらに大坂へ向かうのを防ぐためだったとされる。東軍もこれを追い、夜明けの関ヶ原で両軍が向かい合った。
場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。
19月15日 未明
前夜の雨の中、西軍は大垣城を出て関ヶ原に移り、周囲の山々に「鶴翼の陣」を敷いた。後を追った東軍は、その内側に入り込む形で布陣した。夜明けの盆地は濃い霧に包まれていた。
2午前8時頃
霧が晴れはじめたころ、井伊直政と松平忠吉が先鋒の福島隊を出し抜いて前へ出て、宇喜多隊に発砲(抜け駆け)。怒った福島正則も宇喜多隊へ猛攻をかけ、戦いの火ぶたが切られた。
3午前
黒田長政・細川忠興らは石田隊に殺到。石田方の島左近らが奮戦し、大筒も放って押し返す。藤堂・京極隊は大谷隊と激突した。西軍は数で劣る部分でもよく持ちこたえ、戦況は一進一退となった。
4午前10時頃
石田三成は狼煙を上げて総攻撃を促した。しかし南宮山の毛利勢は、家康に内通する吉川広家が道を塞いで動けず(「宰相殿の空弁当」)。松尾山の小早川秀秋も動かない。島津義弘も三成の使者を追い返した。西軍の半分以上が戦っていなかった。
5正午頃
戦局が動かないことに焦った家康は、本陣を桃配山から陣場野へ進めた。去就の定まらない小早川隊に向けて鉄砲を撃ちかけ、決断を迫ったと伝わる(「問鉄砲」。史実かどうかは議論がある)。
6正午過ぎ
小早川秀秋の軍勢1万5千が松尾山を駆け下り、西軍の大谷隊に襲いかかった。これを予期していた大谷吉継は一度は押し返すが、続いて脇坂・朽木・小川・赤座の4隊も寝返り、大谷隊は包囲された。
7午後1時頃
大谷吉継は自害。これを機に小西隊・宇喜多隊が崩れ、石田隊も支えきれずに敗走した。三成は伊吹山中へ逃れたが、数日後に捕らえられ、京都六条河原で処刑された。
8午後2時頃
戦場に取り残された島津義弘は、敵中突破を決断。家康本陣の目前をかすめて伊勢街道へ駆け抜けた。追撃を振り切るため、兵が少数ずつ踏みとどまって死ぬまで戦う「捨て奸」で、甥の豊久らが犠牲となった。
9夕刻
わずか半日ほどで「天下分け目の戦い」は決着した。家康は9月27日に大坂城へ入り、西軍の大名88家を改易、豊臣家を摂津・河内・和泉65万石の一大名とした。
西軍は数では互角だったが、南宮山の毛利秀元・吉川広家、長宗我部盛親、長束正家らの大軍は最後まで動かなかった。吉川広家は、毛利家の領地を守る約束と引き換えに家康に内通しており、前に陣取って毛利勢の出撃を止めていた。総大将の毛利輝元も大坂城から出ていない。
松尾山の小早川秀秋(約1万5千)は、東軍の黒田長政らを通じて事前に内応を約束していたとされる。秀秋が大谷隊に攻めかかり、脇坂安治ら4隊も続いたことで、西軍の南の守りが崩れ、そこから総崩れになった。
家康は決戦の前から、諸大名に大量の書状を送って味方につけていた。関ヶ原の勝敗は、戦場の采配よりも、それまでの根回しで決まっていたとも言われる。
西軍は周りの山に陣を敷き、盆地の東軍を包むような形(鶴翼の陣)をとった。明治時代に来日したドイツのメッケル少佐が布陣図を見て「西軍の勝ち」と言ったという話が有名だが、確かな記録に基づく話ではなく、後から広まった逸話と考えられている。いずれにせよ、山の上の軍勢が動かなければ、布陣の有利は生きなかった。
東軍の総大将。関ヶ原の勝利で天下の実権をにぎり、1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開いた。1615年の大坂の陣で豊臣家を滅ぼす。
西軍を組織した中心人物。敗走して伊吹山中に逃れたが、数日後に捕らえられ、10月1日に小西行長・安国寺恵瓊とともに京都の六条河原で処刑された。
秀吉の正室・北政所(ねね)の甥。寝返りの功で備前・美作を与えられ、岡山城主となったが、2年後の1602年に21歳で亡くなった。
三成の盟友。病をおして出陣し、小早川の寝返りを予期して備えていたとされる。一度は小早川勢を押し返したが、脇坂らの寝返りで包囲され、自害した。
西軍の主力(約1万7千)を率いた五大老の一人。戦後、薩摩の島津家にかくまわれたのちに引き渡され、八丈島へ流された。島で50年近く生き、1655年に亡くなった。
戦いの大半を傍観したのち、敵中を突破して退却した(島津の退き口)。国元へ帰ったあと、島津家は家康との交渉の末、領地を減らされずに済んだ。
徳川四天王の一人。開戦の口火を切り、島津勢の追撃で鉄砲傷を負った。1602年に亡くなり、この傷がもとになったとも言われる。
毛利一族。家康に内通して毛利勢を動かさなかった。しかし戦後、輝元が西軍の総大将として大坂城に入っていたことが問題となり、毛利家は周防・長門の2か国に大きく減らされた。
合戦の後、家康は9月27日に大坂城に入った。西軍についた大名のうち88家が改易(領地の没収)、5家が減封(領地の削減)となり、合わせて600万石以上が没収されたとされる。その領地は東軍の大名に配り直され、福島正則は安芸広島、黒田長政は筑前福岡、小早川秀秋は岡山の大大名となった。
豊臣家は、全国の蔵入地(直轄の領地)を失い、摂津・河内・和泉の約65万石の一大名となった。ただし、秀頼はなお大坂城にあり、豊臣家を主君と仰ぐ大名も残っていた。家康が1603年に征夷大将軍となって幕府を開いたのは、豊臣家とは別の、武家の頂点としての立場を固めるためだったとも言われる。
豊臣家との決着は、1614年と1615年の大坂の陣までもち越された。関ヶ原で減封された毛利家(長州)と、領地を守った島津家(薩摩)は、およそ260年後の幕末に、倒幕の中心となる。
この絵巻の数字(東軍約7.8万・西軍約7.7万)は、よく使われる概数を部隊ごとに足したものである。東軍を7万〜10万、西軍を8万〜10万前後とする説まで幅があり、確かな数はわからない。
家康が松尾山に鉄砲を撃ちかけて小早川に決断を迫った話は有名だが、同時代の確かな史料には見えず、江戸時代の軍記物などで広まった話と考えられている。近年は、同時代の書状などをもとに、小早川は開戦からまもなく西軍を攻撃し、戦いはごく短時間で終わったとする説も出されている。
現在よく知られる関ヶ原の布陣図は、明治時代に陸軍の参謀本部がまとめた『日本戦史 関原役』などに大きく依っている。各隊の位置や陣の形には、後世の推定が含まれている。この絵巻の配置も、それらの通説にもとづく概略である。
家康が諸将を集めて西へ引き返すことを決めた「小山評定」は、ドラマなどでおなじみの場面だが、そのような会議が本当に開かれたのかを疑う研究もある。
| 1598年8月 | 豊臣秀吉が死去 |
|---|---|
| 1599年閏3月 | 前田利家が死去。七将に襲われかけた石田三成が、佐和山城に退く |
| 1600年6月 | 徳川家康、会津の上杉景勝を討つため大坂を出陣 |
| 1600年7月 | 石田三成らが挙兵。毛利輝元が西軍の総大将として大坂城に入る |
| 1600年8月1日 | 西軍が伏見城を落とす |
| 1600年8月23日 | 東軍が岐阜城を落とす |
| 1600年9月上旬 | 徳川秀忠の軍が、上田城の真田昌幸に足止めされる |
| 1600年9月15日 | 関ヶ原の戦い |
| 1600年10月1日 | 石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が京都で処刑される |
| 1603年2月 | 家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開く |
| 1615年5月 | 大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶ |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 黒田長政 | 約5,400 | |
| 細川忠興 | 約5,000 | |
| 加藤嘉明・田中吉政ら | 約6,000 | |
| 井伊直政・松平忠吉 | 約3,600 | |
| 本多忠勝 | 約500 | |
| 福島正則 | 約6,000 | |
| 藤堂高虎・京極高知 | 約5,500 | |
| 徳川家康総大将 | 約30,000 | 勝利 |
| 池田輝政・浅野幸長ら | 約16,000 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 石田三成総大将 | 約6,000 | 敗走 |
| 島津義弘 | 約1,500 | |
| 小西行長 | 約4,000 | 敗走 |
| 宇喜多秀家 | 約17,000 | 敗走 |
| 大谷吉継 | 約3,500 | 討死・壊滅 |
| 脇坂・朽木ら | 約4,200 | 寝返り |
| 小早川秀秋 | 約15,000 | 寝返り |
| 毛利秀元・吉川広家 | 約16,000 | 敗走 |
| 長宗我部・長束ら | 約10,000 | 敗走 |
決め手
小早川秀秋の軍勢1万5千が松尾山を駆け下り、西軍の大谷隊に襲いかかった。これを予期していた大谷吉継は一度は押し返すが、続いて脇坂・朽木・小川・赤座の4隊も寝返り、大谷隊は包囲された。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「戦国勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:参謀本部編『日本戦史 関原役』(1893年)、笠谷和比古『関ヶ原合戦 ─ 家康の戦略と幕藩体制』(講談社)、白峰旬『新「関ヶ原合戦」論』(新人物往来社)