合戦絵巻 ─ 戦国勢力図

大坂夏の陣・豊臣氏滅亡天王寺・岡山の戦い

1615年5月7日(慶長20年) / 摂津国 天王寺・岡山

5月6日

最後の決戦の前に

1粒=約100人

1615年(慶長20年)5月7日、大坂城の南に広がる天王寺・岡山で、豊臣方と徳川方の最後の決戦が行われた。真田信繁(幸村)は家康の本陣に突撃して家康を追いつめたが、討死した。翌8日、大坂城は落ち、豊臣秀頼と淀殿は自害した。応仁の乱から150年近く続いた戦乱の世は、この戦いで幕を閉じた。

上の観戦プレイヤーでは、豊臣方約2.6万と徳川方約11万、あわせて約14万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの8つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

豊臣方
約2.6万
徳川方
約11万
いつ
5月6日 → 夕刻

なぜ戦ったのか

関ヶ原の戦いのあと、徳川家康は1603年に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた。それでも大坂城の豊臣秀頼は、摂津・河内・和泉の65万石の大名として、なお特別な重みを持っていた。

1614年、秀頼が再建した京都・方広寺の大仏殿の鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」が、家康の名を二つに割り、豊臣の繁栄を願うものだと問題にされた。これをきっかけに戦いとなり(大坂冬の陣)、真田丸の攻防などで豊臣方は持ちこたえたが、和議の条件で大坂城の堀は埋められた。

翌1615年春、大坂城に浪人が再び集まっていることを理由に、家康は再び兵を挙げた。堀を失った城では籠城できない。豊臣方は城を出て戦うしかなく、5月6日の道明寺・八尾若江の戦いで、後藤又兵衛・木村重成・薄田兼相らを失った。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

15月6日

最後の決戦の前に

前年の冬の陣の和睦で、大坂城は堀を埋められ、裸の城になっていた。籠城できない豊臣方は城の外で戦うしかなく、前日の道明寺・八尾若江の戦いでは後藤又兵衛・木村重成らが討死した。15万の徳川方が南から迫る。

25月7日 正午前

両軍の布陣

豊臣方は、天王寺口の茶臼山に真田信繁、その東に毛利勝永、岡山口に大野治房が陣を取った。家康の本陣を引き寄せたところで、明石全登の隊が西から回り込んで突く――それが信繁らの立てた策だったといわれる。

3正午頃

毛利勝永の猛攻

策が整う前に、毛利勝永の前で鉄砲の撃ち合いが始まってしまった。勝永はそのまま攻めかかり、本多忠朝を討ち取り、小笠原秀政に深手を負わせて、徳川の先手を次々に破った。

4正午すぎ

真田信繁の突撃

信繁は赤備えの兵を率いて茶臼山を駆け下り、目の前の松平忠直の大軍に突っ込んだ。越前勢を割って進んだ真田隊は、まっすぐ家康の本陣を目指した。

5午後

家康本陣の崩壊

真田隊の突撃は三度におよび、家康の旗本は総崩れになった。三方ヶ原の負け戦のほかは倒れたことがなかったという家康の馬印が倒され、家康は一時、自害を覚悟したとまで伝えられる。

6午後

信繁、討死

しかし兵の数が違いすぎた。立ち直った徳川勢に囲まれ、疲れ切った真田隊は茶臼山の北へ押し戻された。信繁は安居神社の境内で休んでいたところを、越前勢の西尾宗次に討たれた。49歳だった。

7午後

岡山口の戦い

岡山口では大野治房が秀忠の軍を押し込み、一時は秀忠の本陣も乱れた。だが前田利常・井伊直孝・藤堂高虎らが盛り返し、豊臣方は城へ退いた。毛利勝永は周りの敵を防ぎながら、見事に兵をまとめて城へ引き揚げた。

8夕刻

大坂城、炎上

城内から火の手が上がり、徳川勢がなだれ込んで、天下人秀吉の築いた大坂城は炎上した。翌8日、秀頼と淀殿は山里曲輪の蔵の中で自害し、豊臣家は滅んだ。

勝敗を分けたもの

圧倒的な兵力の差

徳川方15万に対し、豊臣方は5万ほど。真田信繁や毛利勝永がどれほど善戦しても、新手を次々に繰り出せる徳川方を押しきることはできなかった。

狂った作戦

豊臣方は、家康の本陣を十分に引き寄せてから、明石全登の隊が回りこんで突く策を立てていたとされる。ところが毛利勝永の前で撃ち合いが始まってしまい、全軍が呼吸を合わせる前に戦いになった。

秀頼は出陣しなかった

信繁は、秀頼が自ら出陣して兵の士気を高めることを求めたと伝わる。しかし秀頼は城を出ないまま、戦いは決した。

主な武将とその後

真田信繁(幸村)豊臣方

真田昌幸の次男。関ヶ原のあと紀伊の九度山で暮らしていたが、大坂城に入り、冬の陣の真田丸で名を上げた。夏の陣で家康の本陣を崩し、安居神社で討たれた。薩摩の島津家の記録は「真田日本一の兵」とたたえている。

毛利勝永豊臣方

豊臣家の旧臣。天王寺口で本多忠朝らを破る大活躍を見せ、敗勢の中でも見事に兵をまとめて城へ退いた。翌日、秀頼の介錯をつとめて自害したと伝わる。

豊臣秀頼豊臣方

豊臣秀吉の子。23歳。大坂城の山里曲輪で母の淀殿とともに自害し、豊臣家は滅んだ。妻の千姫(家康の孫)は城から救い出された。

徳川家康徳川方

74歳。真田隊の突撃で本陣が崩れ、一時は危うい場面もあったが、豊臣家を滅ぼして戦国の世を終わらせた。翌1616年4月、駿府城で亡くなった。

松平忠直徳川方

家康の孫で、越前の大名。真田隊に陣を突破されたが立て直し、大坂城へ一番乗りを果たした。家臣の西尾宗次が信繁を討ち取った。

本多忠朝徳川方

本多忠勝の次男。冬の陣で失敗をとがめられ、雪辱を期して先手に立ったが、毛利勝永の隊に討たれた。

合戦のあと

大坂城は炎上し、5月8日に秀頼と淀殿が自害して、豊臣家は滅びた。秀頼の子の国松は捕らえられて処刑され、娘は鎌倉の東慶寺に入れられた。

戦いのあと、幕府は年号を元和と改め、大名の城を一つに限る一国一城令と、大名を取りしまる武家諸法度を出した。もう戦はない、という意味をこめて「元和偃武」と呼ばれる。ここから200年あまりの太平の世が始まった。

諸説と論点

「幸村」という名前

信繁が生きているあいだに「幸村」と名乗った確かな史料はない。「真田幸村」の名は、江戸時代の軍記物や講談で広まったものである。

家康は本当に追いつめられたのか

家康の馬印が倒れたことは、徳川家の家臣・大久保彦左衛門の『三河物語』にも記されている。家康が自害を覚悟したという話や、家康がこのとき討たれて影武者が入れ替わったという話は、後世の逸話や俗説である。

秀頼は生き延びたのか

大坂城から秀頼と信繁が薩摩へ逃れたという噂は、落城直後から京で歌にうたわれるほど広まった。しかし、それを裏づける確かな史料はない。

関連年表

1600年9月関ヶ原の戦い
1603年2月家康が征夷大将軍となる
1614年7月方広寺の鐘の銘が問題となる
1614年11月〜12月大坂冬の陣。12月に和議、大坂城の堀が埋められる
1615年5月6日道明寺・八尾若江の戦い。後藤又兵衛・木村重成が討死
1615年5月7日天王寺・岡山の戦い。真田信繁が討死
1615年5月8日豊臣秀頼・淀殿が自害。豊臣家が滅ぶ
1615年7月元和に改元。武家諸法度を出す
1616年4月家康が死去

両軍の陣容

豊臣方約2.6万

部隊兵力その後
豊臣秀頼総大将大坂城討死・壊滅
真田信繁(幸村)約3,500討死・壊滅
毛利勝永約4,000討死・壊滅
大谷吉治・渡辺糺ら約2,000敗走
明石全登約2,000敗走
大野治房約4,600敗走
大野治長・七手組約10,000討死・壊滅

徳川方約11万

部隊兵力その後
徳川家康総大将約30,000
松平忠直(越前勢)約15,000敗走
本多忠朝・小笠原秀政ら約5,000討死・壊滅
伊達政宗約10,000
徳川秀忠約25,000
前田利常約15,000
井伊直孝・藤堂高虎約10,000

決め手

家康本陣の崩壊

真田隊の突撃は三度におよび、家康の旗本は総崩れになった。三方ヶ原の負け戦のほかは倒れたことがなかったという家康の馬印が倒され、家康は一時、自害を覚悟したとまで伝えられる。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「戦国勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:大久保忠教『三河物語』、笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館)