運命の分かれ目
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1585年8月19歳
上杉、そして豊臣の人質に
父の真田昌幸が上杉景勝と手を結ぶと、その証として上杉のもとへ送られた。同じ年、真田は上田城で徳川の大軍を破った(第一次上田合戦)。翌年からは豊臣秀吉のもとに移され、大坂で暮らした。
秀吉に仕え、秀吉の重臣の大谷吉継の娘を妻に迎えた。
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1600年7月34歳
犬伏の別れ
家康が会津攻めに向かう途中、石田三成の挙兵の知らせが届いた。下野の犬伏で父子3人が話し合い、父の昌幸と信繁は西軍に、兄の信之は東軍に付くと決めた。どちらが勝っても真田の家が残るように、ともいわれる。
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1600年9月34歳
第二次上田合戦
父とともに上田城にこもり、中山道を西へ進む徳川秀忠の3万8000の軍を足止めした。秀忠は関ヶ原の戦いに間に合わなかった。しかし西軍は関ヶ原で敗れた。
兄の信之の願いで命は助けられ、父とともに紀伊の九度山に流された。父は11年後にこの地で亡くなった。
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1614年12月48歳
大坂冬の陣の「真田丸」
豊臣秀頼の招きに応じて九度山を抜け出し、大坂城に入った。城の南に「真田丸」と呼ばれる出城を築き、攻め寄せた徳川方の軍に大きな損害を与えた。
和睦の条件で、真田丸は壊され、大坂城の堀は埋められた。
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1615年5月49歳
大坂夏の陣、家康の本陣へ突撃
天王寺口で、家康の本陣めがけて突撃を繰り返した。本陣は崩れ、家康は一時、死を覚悟したとも伝わる。しかし力尽き、安居神社のあたりで討ち取られた。49歳だった。翌日、大坂城は落ちた。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
居所の移り変わり
- 1
上田城
1583年ごろ〜1600年(17〜34歳)父の昌幸が築いた城。徳川の大軍を2度退けた。
- 2
九度山
1600年〜1614年(34〜48歳)流された紀伊の山里。父と14年近くを過ごした。
- 3
大坂城(真田丸)
1614年〜1615年(48〜49歳)豊臣方として入城し、南に出城を築いた。
地図は1599年の勢力図に、居所の位置を重ねたものです。濃い色が真田氏の勢力です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
後世の創作
名前は「真田幸村」
確かな史料に残る名は「信繁」。「幸村」は、江戸時代の軍記物や講談で使われて広まった名前。
史料にある
「日本一の兵」と呼ばれた
大坂夏の陣のあと、島津家の家臣が書き残したものに、真田を「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」とたたえる言葉が見える。
後世の創作
真田十勇士を従えていた
猿飛佐助・霧隠才蔵らの十勇士は、大正時代の少年向けの読み物(立川文庫)などで人気になった、作られた人物たち。
後世の創作
実は生きのびて、秀頼を連れて薩摩へ逃れた
大坂城が落ちたあと、京の町で歌われたはやり歌に由来する伝説。
数字で見る幸村
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
主役のバトン
同じ時代、世界では
幸村が生まれたころの世界
- 1571年ヨーロッパレパントの海戦
幸村が出てくる合戦絵巻
略年譜(戦国勢力図の出来事から)
参考
- 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社新書)
- 平山優『真田信繁』(角川選書)