戦国勢力図の人物

豊臣秀吉とよとみ ひでよし

1537年〜1598年(数え62歳) / 天下人・関白・太閤 / 羽柴・豊臣氏

名もない身から信長に取り立てられ、主君の死からわずか8年で、日本をひとつにまとめた。

尾張の農民(足軽)の子から天下人に上り詰めた。太閤検地・刀狩で近世の基礎を築いた。

羽柴・豊臣氏の勢力

運命の分かれ目

  1. 1573年8月37歳

    小谷城を落とし、城持ち大名に

    信長に仕えて頭角をあらわし、浅井長政の小谷城攻めで手柄を立てた。浅井の旧領の北近江をもらい、はじめて城持ちの大名となった。名を木下から羽柴に改めたのも、このころである。

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  2. 1577年からは中国地方の毛利攻めを任された。三木城の「干殺し」、鳥取城の「渇え殺し」と、敵の城を囲んで食料を断つ戦い方で、播磨・因幡を手に入れていった。

  3. 1582年6月46歳

    中国大返しと山崎の戦い

    備中高松城を水攻めにしている最中に、本能寺の変の知らせが届いた。すぐに毛利と和睦し、約200kmを10日ほどで駆け戻って、山崎で明智光秀を破った。主君の仇を討ったことで、織田家の家臣の中で一歩抜け出した。

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  4. 清洲会議で、信長の孫の三法師を後継ぎに立てて主導権を握った。これに反発したのが、織田家の筆頭家老の柴田勝家だった。

  5. 1583年4月47歳

    賤ヶ岳の戦い

    近江の賤ヶ岳で柴田勝家の軍を破り、越前の北ノ庄城に追いつめて自害させた。織田家の家臣どうしの争いに勝ち、信長の後継者の地位を固めた。同じ年、石山本願寺の跡に大坂城を築きはじめた。

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  6. 1584年の小牧・長久手の戦いでは徳川家康に苦戦したが、和睦して家康を臣従させた。1585年には関白となり、四国、1587年には九州を平定した。

  7. 1590年7月54歳

    小田原征伐と天下統一

    20万をこえる大軍で北条氏の小田原城を囲み、3か月で降した。続いて東北の大名の領地を決め直し(奥州仕置)、応仁の乱から120年あまり続いた戦国の世を終わらせた。家康は北条の旧領の関東に移された。

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  8. 刀狩で百姓から武器を取り上げ、太閤検地で全国の土地を同じ物差しで測った。身分と土地の仕組みは、江戸時代に引き継がれていく。

  9. 1592年4月56歳

    朝鮮出兵

    明を征服するとして、15万をこえる軍を朝鮮に送った(文禄の役)。はじめは漢城(いまのソウル)まで攻め上ったが、李舜臣の水軍や明の援軍に阻まれた。1597年にも再び出兵したが(慶長の役)、翌年8月、幼い秀頼を残して伏見城で亡くなった。

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年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。

居城の移り変わり

  1. 1

    長浜城

    1574年ごろ〜1582年(38〜46歳)

    浅井の旧領に、琵琶湖のほとりに築いた最初の居城。

  2. 2

    姫路城

    1580年〜1582年(44〜46歳)

    中国攻めの拠点。黒田官兵衛から譲られて大きく築き直した。

  3. 3

    大坂城

    1583年〜1598年(47〜62歳)

    石山本願寺の跡に築いた、天下の城。

  4. 4

    聚楽第

    1587年〜1591年(51〜55歳)

    京に築いた政庁と邸宅。後陽成天皇を迎えた。

  5. 5

    伏見城

    1594年〜1598年(58〜62歳)

    晩年を過ごし、亡くなった城。

地図は1591年の勢力図に、居城の位置を重ねたものです。濃い色が羽柴・豊臣氏の勢力です。

通説と実像

よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。

後世の創作

信長の草履を懐で温めた

江戸時代の読み物『絵本太閤記』などで広まった話で、確かな史料には見えない。

諸説

墨俣に一夜で城を築いた

『信長公記』などの確かな史料にはない。よく引かれる『武功夜話』は、史料としての信頼性に疑問が出されている。

諸説

信長は秀吉を「猿」と呼んだ

信長が妻のねねにあてた手紙では、秀吉を「はげねずみ」と書いている。「猿」のあだ名は、ほかの人の書き残したものに見える。

史料にある

中国大返し:約200kmを10日ほどで戻った

6月4日ごろに毛利と和睦し、13日に山崎で戦った。兵の多くが本当にこの速さで動けたのかは議論があるが、日付は確かな史料で追える。

諸説

刀狩で、百姓の武器をすべて取り上げた

取り上げたのは主に刀や脇差で、鉄砲などは村に残ったことがわかってきた。百姓が武器を持てなくなったというより、身分を見た目で分ける政策だったとする見方がある。

数字で見る秀吉

勢力が最も広かった年1598年40地域・約12万km²(62歳)
そのときの広さ40%この地図の範囲(北海道・沖縄をのぞく日本)のうち。その年の勢力の中で1位
信長に仕えてから44年1554年、織田信長に仕える(年は諸説)
地図に記された戦い13回戦国勢力図の出来事のうち、秀吉の名前が出てくる戦い
居城を移した回数4回長浜 → 姫路 → 大坂 → 聚楽第 → 伏見

広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。

つながり

主役のバトン

秀吉が死んだあと

1598年(死んだ時点)
1608年(10年後)
40死
401年後
402年後
43年後
44年後
45年後
46年後
47年後
48年後
49年後
310年後

羽柴・豊臣氏の勢力は、秀吉が死んだ時点で地図の上の40地域。10年後には3地域。死んだ時点の羽柴・豊臣氏の地域は、10年後には松平・徳川氏が17地域、外様諸大名が15地域を支配していた。

死んだ年の勢力図を開く

地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。家臣の大名の領地は、独立するまで主家の色で示しています。

同じ時代、世界では

フェリペ2世ヨーロッパ・1527年〜1598年・秀吉より10歳年上「太陽の沈まない国」と呼ばれたスペインの王。
エリザベス1世ヨーロッパ・1533年〜1603年・秀吉より4歳年上スペインの無敵艦隊を破ったイングランドの女王。
アクバルインド・1542年〜1605年・秀吉より5歳年下ムガル帝国を大きく広げた皇帝。
李舜臣朝鮮・1545年〜1598年・秀吉より8歳年下豊臣秀吉の朝鮮出兵で、日本の水軍を破った朝鮮の将軍。
ヌルハチ中国・1559年〜1626年・秀吉より22歳年下女真をまとめ、のちの清のもとを築いた。
万暦帝中国・1563年〜1620年・秀吉より26歳年下明の皇帝。秀吉の朝鮮出兵に援軍を送った。

秀吉が生まれたころの世界

秀吉が出てくる合戦絵巻

略年譜(戦国勢力図の出来事から)

参考