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戦国大名の勢力は、どこまで大きくなったか ― 石高で見る天下統一
戦国時代の勢力図を眺めていると、「この大名は全国のどれくらいを押さえていたのだろう」と気になります。そこで、このサイトの戦国勢力図の色分けを、地域ごとの石高に置きかえて足し算してみました。すると、豊臣秀吉と徳川家康は全国の約半分に届き、地方の大大名は最大でも1割に届かなかったことが見えてきます。150年間の「大きさ」の移り変わりを、数字でたどります。
数え方:地図の色を石高に置きかえる
戦国勢力図は、日本を令制国などをもとにした90の地域に分け、それぞれの地域を「主たる支配勢力」の色でぬっています。この記事では、各地域に慶長3年(1598年)の検地目録にもとづく国の石高を当てはめました。一つの国を二つ以上の地域に分けている場合は、石高を按分しています。全国の合計は約1857万石です。
そのうえで、1467年から1615年まで1か月ずつ、勢力ごとに「自分の色でぬられている地域の石高」を足し上げました。ある勢力の数字が最も大きくなった月を、その勢力の「最大」とします。地図の決まりごとから来る数字のくせは、最後の「この記事の数字について」にまとめました。
最大の石高ランキング:天下人は全国の半分に届いた
各勢力の最大の石高を並べると、上位の三つが飛び抜けています。徳川氏が約959万石(全国の51.6%)、豊臣氏が約939万石(50.5%)、織田氏が約765万石(41.2%)です。4位の後北条氏は約182万石(9.8%)で、天下人との差は5倍前後になります。
| 勢力 | 最大の石高 | 全国に占める割合 | 時期 | 地域の数 |
|---|---|---|---|---|
| 松平・徳川氏 | 約959万石 | 51.6% | 1615年5月(大坂夏の陣のあと) | 33 |
| 羽柴・豊臣氏 | 約939万石 | 50.5% | 1598年1月〜1600年9月 | 40 |
| 織田氏 | 約765万石 | 41.2% | 1582年3月〜5月 | 30 |
| 後北条氏 | 約182万石 | 9.8% | 1582年6月〜1590年 | 5 |
| 島津氏 | 約166万石 | 9.0% | 1586年末〜1587年春 | 6 |
| 細川氏(京兆家) | 約163万石 | 8.8% | 1493年〜1507年ごろ | 9 |
| 毛利氏 | 約154万石 | 8.3% | 1580年10月〜1581年秋 | 11 |
| 大友氏 | 約149万石 | 8.0% | 1557年〜1578年 | 5 |
| 三好氏 | 約134万石 | 7.2% | 1560年10月〜1568年9月 | 7 |
| 武田氏 | 約128万石 | 6.9% | 1568年末〜1582年初め | 7 |
| 伊達氏 | 約110万石 | 5.9% | 1589年6月〜1590年 | 5 |
織田信長はどこまで来ていたか
信長の出発点は尾張一国、約57万石でした。1567年に美濃を取ると約111万石になり、翌1568年9月に足利義昭を奉じて京に入ると、近江や畿内が加わって約288万石(15.5%)に跳ね上がります。この時点で、それまでどの大名も越えられなかった全国の1割を、一気に追い越しました。
その後の伸び方には波があります。1574年には越前の一向一揆で越前を失い、1578年には播磨の別所長治と摂津の荒木村重が相次いで離反し、数字はそのたびに数十万石ずつ減っています。それでも1580年の初めには約520万石(28%)、1582年の初めには約652万石(35.1%)に達しました。
1582年3月、武田氏を滅ぼして甲斐・信濃・上野などを加えた時点で、織田氏は約765万石、全国の約41%に達します。これが織田氏の最大です。ところが6月2日に本能寺の変が起き、7月には地図上の織田家は約214万石(11.5%)にまで縮みました。この数字には、柴田勝家・羽柴秀吉・明智光秀らの家臣が治めた国も含まれています。地図では家臣が独立するまで主家の色でぬっているためで、変のあと家臣がそれぞれ自立した勢力として分かれた分だけ、織田家の数字が急に小さくなりました。
豊臣と徳川:半分を押さえた二人の天下人
本能寺の変の直後、羽柴秀吉の色でぬられた地域は約288万石でした。1583年の賤ヶ岳の戦いのあと約422万石、1585年の四国・北陸平定で約548万石、1587年の九州平定で約679万石と増え、1590年の小田原攻めと奥州仕置で約873万石に届きます。1598年1月には約939万石、全国の50.5%となり、関ヶ原の戦いのあった1600年9月まで、この数字が続きました。この「豊臣」の数字にも、秀吉に従った家臣大名の領地が入っています。一方、徳川・毛利・前田・上杉などの大大名は、別の色で数えています。
徳川家康は、1590年に関東へ移された時点で約220万石(11.8%)でした。地方の大大名としては、これがすでに最大級です。関ヶ原の戦いのあと約765万石(41.2%)になり、大坂夏の陣で豊臣氏が滅んだ1615年5月には約959万石、全国の51.6%に達しました。
ここで注目したいのは、数え方の違いです。関ヶ原のあとの地図では、徳川の一門・譜代の大名と幕府の直轄地を徳川の色でぬり、福島・黒田・加藤などの外様大名は別の色にしています。1601年の初めには、個別に色分けしていない外様の中小大名だけでも約300万石(16.1%)ありました。家臣大名を広く含めた豊臣の数字と、外様を除いた徳川の数字が、ほぼ同じ「全国の半分」に並んでいることになります。徳川が身内だけで押さえた土地の大きさが、ここから読み取れます。
「いちばん大きな勢力」の移り変わり
それぞれの年の初めに、最も大きな石高を持っていた勢力を並べました。応仁の乱から1560年代まで、1位の勢力はいずれも全国の1割に届いていません。1位は細川京兆家から大友・後北条へと、短い間に入れかわっています。1569年に織田氏が1位になってからは、織田・豊臣・徳川と、天下人が1位を譲ることはありませんでした。
| 年の初め | 1位 | 石高(割合) | 2位 |
|---|---|---|---|
| 1467年 | 細川氏(京兆家) | 約141万石(7.6%) | 斯波氏(約133万石) |
| 1500年 | 細川氏(京兆家) | 約163万石(8.8%) | 山内上杉氏(約116万石) |
| 1540年 | 細川氏(京兆家) | 約110万石(5.9%) | 後北条氏(約93万石) |
| 1550年 | 大友氏 | 約103万石(5.5%) | 後北条氏(約93万石) |
| 1555年 | 後北条氏 | 約143万石(7.7%) | 三好氏(約110万石) |
| 1560年 | 大友氏 | 約149万石(8.0%) | 後北条氏(約143万石) |
| 1565年 | 後北条氏 | 約170万石(9.2%) | 大友氏(約149万石) |
| 1568年 | 大友氏 | 約149万石(8.0%) | 毛利氏(約145万石) |
| 1569年 | 織田氏 | 約290万石(15.6%) | 大友氏(約149万石) |
| 1575年 | 織田氏 | 約352万石(19.0%) | 大友氏(約149万石) |
| 1582年 | 織田氏 | 約652万石(35.1%) | 毛利氏(約145万石) |
| 1583年 | 羽柴・豊臣氏 | 約318万石(17.1%) | 織田氏(約214万石) |
| 1591年 | 羽柴・豊臣氏 | 約846万石(45.5%) | 徳川氏(約220万石) |
| 1601年 | 松平・徳川氏 | 約767万石(41.3%) | 外様諸大名(約300万石) |
| 1615年 | 松平・徳川氏 | 約885万石(47.7%) | 外様諸大名(約294万石) |
地方の大大名と「1割の壁」
天下人を除くと、最大の石高が全国の1割を越えた勢力は一つもありません。関東を固めた後北条氏の約182万石(9.8%)、九州をほぼ手にした島津氏の約166万石(9.0%)、中国地方の毛利氏の約154万石(8.3%)が上位で、武田信玄の武田氏も約128万石(6.9%)でした。
一方の天下人は、いずれも京都とその周りを押さえたところから数字を大きく伸ばしています。地図の区分で近畿の地域を合わせると約344万石、東海が約250万石あり、合わせると全国の3割を超えます。信長が尾張・美濃から京へ進んだ道筋は、石高の高い土地を順に押さえていく道でもありました。地方の大大名が一つの地方をまとめても1割前後にとどまったのに対し、畿内と東海を押さえた勢力は、そこから全国の半分まで届いています。数字で見ると、天下統一とは、この大きな差が生まれていく過程だったと言えそうです。
この記事の数字について
地図の色は、各地域の「主たる支配勢力」を一つ選んだ単純化です。実際の戦国時代の支配は重なり合い、境目もはっきりしないことが多くありました。同じ国の中に複数の大名がいても、地図では一つの色になります。どの勢力にも属さない「国人割拠」の地域は、どの勢力にも数えていません。
石高は、どの年についても慶長3年(1598年)の国別の石高を使っています。太閤検地のあとの数字なので、戦国時代の前半の実際の生産力とは違います。この記事の数字は「その時代に押さえていた土地の、のちの時代の評価額」と考えるのが近いでしょう。分割した国の石高は按分した概数です。
織田・豊臣政権の家臣大名(柴田・羽柴・明智など)は、独立するまで主家の色で数えています。関ヶ原の戦いのあとの転封は、1600年9月以降のこととして数えています。数字はおよその値に丸めています。