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魏・呉・蜀は、どれだけの土地と人を押さえていたか

歴史地図・読み物 更新:2026-10-24

「天下三分の計」という言葉から、魏・呉・蜀が天下を三つに分け合った姿を思い浮かべる人は多いでしょう。では、三つの国はどれくらいの大きさだったのでしょうか。このサイトの三国志勢力図の色分けに、後漢の時代の郡ごとの人口を当てはめて数えると、魏が全国の約3分の2を押さえ、呉と蜀を合わせても約3分の1だったことがわかります。群雄割拠の時代から晋の統一まで、数字でたどります。

数え方:後漢の人口で「土地の重み」をはかる

三国志勢力図は、後漢の郡をもとに中国を74の地域に分け(人口の少ない郡はいくつかまとめています)、それぞれを「主たる支配勢力」の色でぬっています。この記事では、各地域に『後漢書』郡国志が伝える140年ごろの人口をもとにした概数を当てはめました。全国の合計は約4734万人です。

そのうえで、184年の黄巾の乱から280年の晋の統一まで、勢力ごとに「自分の色でぬられている地域の人口」を足し上げました。ここで注意したいのは、これが戦乱の前の人口だということです。三国時代には、人口は大きく減っていました。この記事の数字は、平和だった時代の人口を物差しにした「押さえていた土地の重み」と考えてください。

201年曹操・魏 39%袁紹 24%13%8%208年曹操・魏 64%13%8%8%216年曹操・魏 66%17%14%220年曹操・魏 65%孫氏・呉 18%14%262年曹操・魏 66%孫氏・呉 19%14%264年曹操・魏 81%孫氏・呉 18%

■ 曹操・魏■ 袁紹■ 劉焉・劉璋■ 孫氏・呉■ 劉表■ 劉備・蜀漢■ 士燮■ 鮮卑■ 羌・氐■ その他

各年の初めに、勢力ごとに押さえていた郡の人口(『後漢書』郡国志、140年ごろの数字)の合計が、全体のどれだけにあたるか。戦乱で人口は大きく減ったので、押さえた土地の「重み」の目安です。

群雄の時代:最大は袁紹の4分の1

184年の初め、後漢の朝廷は全国の98.8%を治めていました。それが190年ごろから急速に崩れ、192年の初めには朝廷の色でぬられた地域は17.8%まで減ります。代わって現れたのが各地の群雄です。

早くから大きな地盤を持ったのは益州の劉焉で、188年に益州に入ってから約625万人分(13.2%)の土地を押さえ、子の劉璋の代の214年までほぼ変わりませんでした。荊州の劉表は最大で約383万人分(8.1%)です。群雄の中で最も大きくなったのは袁紹で、199年に幽州の公孫瓚を滅ぼして黄河の北をほぼ手に入れたとき、約1160万人分、全国の24.5%に達しました。

ところが、そのころすでに曹操は袁紹を上回っていました。献帝を迎えた196年以降、曹操は周りの州を次々に手に入れ、198年の初めには約1094万人分(23.1%)で袁紹を抜いています。官渡の戦いの直後、201年の初めの数字は曹操が38.7%、袁紹が24.5%でした。「大軍の袁紹を少ない兵の曹操が破った」と語られる官渡の戦いですが、押さえていた土地の重みでは、曹操はすでに袁紹より大きかったことになります。

赤壁の前、曹操は7割を押さえていた

曹操は袁氏を滅ぼして華北を統一し、208年の初めには63.9%を押さえていました。この年の秋、劉表の子の劉琮が降伏して荊州が加わると、数字は約3381万人分、全国の71.4%に達します。地図の上では、天下統一まであと3割に迫っていたことになります。

赤壁の戦いのあと、荊州の南部は劉備と孫権の手に移り、曹操の数字は65%前後に下がりました。その後の曹操と魏の数字は、関中や漢中、遼東の出入りがあっても65%前後でほとんど動かなくなります。赤壁の戦いは、魏の取り分を「3分の2」に止めた戦いでもありました。

数字で見る「天下三分」

劉備は214年に成都を手に入れ、益州と荊州の一部をあわせて約983万人分(20.8%)を押さえました。これが劉備・蜀漢の最大です。翌215年、荊州の東半分を孫権に譲ると約800万人分に、219年の末に関羽が敗れて荊州を失うと約652万人分(13.8%)になりました。以後の蜀は、益州一州の国です。

孫権の呉は、荊州を手に入れた219年の末に約838万人分(17.7%)となり、226年に交州の士燮が亡くなって交州を直接治めるようになると約899万人分(19.0%)に増えました。最大は237年からの約904万人分(19.1%)です。

三国が並び立っていた時期の比率は、ほとんど変わりません。下の表のとおり、魏が約3分の2、呉が約2割、蜀が約1割強で、呉と蜀を合わせても魏の半分ほどでした。

年の初め曹操・魏孫氏・呉劉備・蜀漢主なできごと
208年63.9%8.4%―(劉表 8.1%・劉璋 13.2%)この年の冬に赤壁の戦い
216年65.7%14.0%16.9%劉備が益州を得て、荊州を孫権と分ける
220年65.1%17.7%13.8%前年末に関羽が敗れ、呉が荊州を得る
230年65.2%19.0%13.9%諸葛亮の北伐のころ
262年66.0%19.1%13.9%蜀が滅ぶ前の年
264年81.2%17.8%―前年に蜀が滅び、交趾も呉から魏に移る

なぜ魏はこれほど大きかったのか

理由の一つは、140年ごろの人口が黄河の流域に集中していたことです。地図の区分で州ごとに合わせると、冀州が約594万人、豫州が約575万人、青州が約369万人、司隷が約310万人と、華北の州が上位に並びます。魏が華北の州だけで押さえていた人口は約2809万人で、全国の約6割にあたります。

これに対して、蜀の土台である益州は、南中と呼ばれる南の地域を含めても約660万人です。冀州一州の人口が、蜀一国とほぼ同じだったことになります。呉は揚州・荊州南部・交州を合わせて約904万人でした。長江の南はこの時代、これから開発が進んでいく土地で、人口の重みでは華北に遠く及びませんでした。

263年の冬に魏が蜀を滅ぼすと、魏の数字は約3846万人分(81.2%)に跳ね上がります。同じ年、呉の南の交趾・九真でも呂興が呉に背いて魏に付きました(271年に呉が取り戻します)。265年に魏から位を譲られた晋は、280年に呉を滅ぼして、全国の99%を一つの色にまとめました。184年の後漢とほぼ同じ姿に、96年かけて戻ったことになります。

この記事の数字について

人口は『後漢書』郡国志の140年ごろの数字をもとにした概数で、三国時代にはどの地域でも戦乱や飢饉で大きく減っていました。当時の実際の人口や兵の数を示すものではありません。また、人口の少ない郡はいくつかまとめて一つの地域にしています。

地図の色は、各地域の「主たる支配勢力」を一つ選んだ単純化です。争っている地域は、優勢な側の勢力として数えています。在地の勢力が割拠している地域は、どの勢力にも数えていません。表の数字は、それぞれの年の初めの値です。

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出典・参考