合戦絵巻 ─ 三国志 勢力図

夷陵の戦い陸遜の火攻め

222年2月〜閏6月(章武2年) / 荊州 夷陵・猇亭

222年2月

劉備の進軍

1粒=約100人

222年(章武2年)、荊州の夷陵(いまの湖北省宜昌市)で、関羽の仇を討つため呉に攻めこんだ蜀の劉備が、呉の陸遜に大敗した。陸遜は半年近く戦いを避けて蜀軍が疲れるのを待ち、夏、森の中に連なる蜀の陣に火を放った。劉備は白帝城に逃れ、翌年そこで亡くなった。

上の観戦プレイヤーでは、蜀軍(劉備)約4万と呉軍(陸遜)約5万、あわせて約9万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

蜀軍(劉備)
約4万
呉軍(陸遜)
約5万
いつ
222年2月 → 結果

なぜ戦ったのか

219年、荊州を守っていた関羽は、呉の呂蒙に背後を突かれて荊州を失い、捕らえられて斬られた。劉備にとって関羽は、旗揚げのころからともに戦ってきた兄弟のような存在だった。

221年、劉備は皇帝の位につき、蜀(漢)を建てた。そしてその年の7月、関羽の仇を討ち、荊州を取り戻すため、自ら大軍を率いて呉へ攻めこんだ。出陣の直前には、張飛も部下に殺されている。

呉の孫権は、まだ40歳ほどで名の知られていなかった陸遜を大都督に任じて、迎え撃たせた。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

1222年2月

劉備の進軍

劉備は巫・秭帰を落として長江の南岸を進み、山沿いに数十の陣を連ねた。長江の北岸には黄権の軍を置いて魏に備えた。

2222年3月〜5月

陸遜は戦わない

若い陸遜が大都督に任じられたことに、呉の古参の将たちは不満だった。陸遜は「劉備は勢いに乗っている。疲れるのを待つ」と、半年近く戦いを避けた。劉備は兵を出して挑発したが、陸遜は乗らなかった。

3222年閏6月

夏の暑さと森の陣

蜀軍は夏の暑さを避けて、陣を森の中へ移した。陸遜は一つの陣を試しに攻めて負けたが、「破る方法がわかった」と言った。

4222年閏6月

火攻め

陸遜は兵に一本ずつ茅を持たせ、いっせいに火を放たせた。森の中の陣は次々に燃え上がり、陸遜は四十余りの陣を破った。

5222年閏6月

馬鞍山から白帝城へ

劉備は馬鞍山に逃れて防いだが、四方から攻められて数万の兵を失い、夜のうちに逃げた。追っ手を防ぐため、兵の鎧を積んで焼いて道をふさいだという。劉備はようやく白帝城にたどり着いた。

6222年8月

黄権、魏に降る

長江の北岸にいた黄権は、帰り道を断たれて魏に降伏した。劉備は「黄権がわたしに背いたのではない。わたしが黄権に背いたのだ」と言って、残された家族をそのまま養ったという。

7結果

夷陵の戦いの結果

蜀は多くの兵と将を失い、劉備は翌年、白帝城で亡くなった。陸遜の名は高まり、呉は荊州を守り抜いた。この後、諸葛亮は呉との同盟を回復し、魏との戦いに力を向けた。

勝敗を分けたもの

戦わずに待つ

陸遜は、勢いに乗った劉備とすぐには戦わず、半年近く守りを固めた。呉の古参の将たちは不満を募らせたが、陸遜は動かなかった。長い対陣で、蜀軍はしだいに疲れ、気がゆるんでいった。

連なる陣

劉備は長江の南岸の山沿いに、数十の陣を長く連ねていた。夏の暑さを避けて陣を森の中へ移したことも、火攻めにはうってつけだった。

火攻め

陸遜は兵に一本ずつ茅を持たせ、いっせいに火を放たせた。燃え広がる火の中で、蜀の陣は次々に破られ、四十余りの陣が落ちた。

主な武将とその後

劉備蜀軍(劉備)

蜀の皇帝。大敗して白帝城に逃れ、翌223年、諸葛亮に子の劉禅を託して亡くなった。63歳。

陸遜呉軍(陸遜)

呉の大都督。この勝利で一躍名を上げ、のちに呉の丞相となった。若く無名の将が老練な劉備を破ったことで、名将として長く語られる。

黄権蜀軍(劉備)

長江の北岸で魏に備えていたが、帰り道を断たれて魏に降伏した。劉備は「わたしが黄権に背いたのだ」と言って、残された家族をそのまま養ったと伝わる。

朱然呉軍(陸遜)

呉の将。水軍を率いて蜀軍の退路を断った。

合戦のあと

蜀は多くの兵と将を失った。劉備は白帝城にとどまり、223年4月、丞相の諸葛亮に後のことを託して亡くなった。

諸葛亮は、劉備の死後すぐに呉との同盟を回復させた。蜀と呉が手を結んで魏に対抗する形が戻り、諸葛亮は南の反乱を鎮めたあと、魏への北伐に乗り出していく。

諸説と論点

劉備の大軍

『三国志演義』では、劉備は70万の大軍で攻めこんだとされるが、これは大げさな数字である。正史などからは、蜀軍は4万前後だったと考えられている。

石兵八陣

『三国志演義』には、逃げる劉備を追った陸遜が、諸葛亮が前もって石を並べて作った「八陣図」に迷いこむ場面がある。正史にはない、小説の創作である。

関連年表

219年12月関羽が呉に斬られる
220年曹丕が魏を建てる
221年4月劉備が皇帝となる
221年7月劉備が呉へ出陣
222年閏6月夷陵の戦い。陸遜の火攻め
223年4月劉備が白帝城で死去
225年諸葛亮の南征

両軍の陣容

蜀軍(劉備)約4万

部隊兵力その後
劉備本陣総大将4万余(諸説)敗走
蜀の陣討死・壊滅
蜀の陣討死・壊滅
蜀の陣討死・壊滅
蜀の陣討死・壊滅
黄権(長江北岸)寝返り

呉軍(陸遜)約5万

部隊兵力その後
陸遜(大都督)総大将5万勝利
朱然(水軍)
韓当
呉の弓兵

決め手

火攻め

陸遜は兵に一本ずつ茅を持たせ、いっせいに火を放たせた。森の中の陣は次々に燃え上がり、陸遜は四十余りの陣を破った。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「三国志 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:陳寿『三国志』、渡邉義浩『三国志 ─ 演義から正史、そして史実へ』(中公新書)