劉

三国志 勢力図の人物

劉備りゅう び

161年〜223年(数え63歳) / 蜀漢の初代皇帝 / 劉備・蜀漢

むしろ売りから身を起こし、負けては逃げ、人を頼って生きのびた。50歳を過ぎて蜀を得て、皇帝になった。

漢の皇族の末裔を名乗った。人を引きつける徳があり、何度敗れても再起した。

劉備の勢力

運命の分かれ目

  1. 194年12月34歳

    徐州を継ぐ

    黄巾の乱の討伐で世に出たあと、公孫瓚のもとを経て、徐州の陶謙を助けた。陶謙は死に臨んで、徐州を劉備にゆずった。はじめて一つの州の主となった。

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  2. しかし2年後、頼ってきた呂布に徐州を奪われた。曹操のもとに身を寄せ、ともに呂布を滅ぼした。

  3. 200年1月40歳

    曹操のもとを去る

    曹操から「天下の英雄は君と私だけだ」と言われ、箸を落としたという話が正史にある。やがて曹操を倒す計画に加わり、徐州で背いた。曹操に攻められて北の袁紹のもとへ逃れ、関羽は一時、曹操に降った。

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  4. 官渡で袁紹が敗れると、荊州の劉表を頼って新野に入った。

  5. 207年12月47歳

    三顧の礼

    隆中にこもっていた諸葛亮の庵を3度訪ねて、ようやく会うことができた。諸葛亮は、荊州と益州を取って孫権と結び、曹操に対抗するという「天下三分の計」を説いた。劉備は「私に孔明がいるのは、魚に水があるようなものだ」と言った。

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  6. 翌年、曹操の大軍が南下し、劉備は長坂で追いつかれて大敗した。孫権と結び、赤壁で曹操を退けた。

  7. 214年5月54歳

    成都を得る

    益州の劉璋に招かれて蜀に入り、やがて劉璋と戦って成都を降した。荊州と益州を合わせて、ついに大きな地盤を手にした。54歳だった。

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  8. 219年、漢中を曹操から奪って漢中王となった。しかし同じ年、荊州を守っていた関羽が孫権に討たれ、荊州を失った。

  9. 222年6月62歳

    夷陵の戦い

    221年に皇帝となり(蜀漢)、関羽の仇を討つため孫権を攻めた。しかし夷陵で陸遜の火攻めにあい、大敗した。白帝城に退いた劉備は病に倒れ、翌年、諸葛亮に「わが子の劉禅が助けるに足りなければ、君が国を取れ」と後を託して亡くなった。

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年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。

拠点の移り変わり

  1. 1

    徐州(下邳)

    194年〜196年(34〜36歳)

    陶謙からゆずられた最初の州。呂布に奪われた。

  2. 2

    新野

    201年〜208年(41〜48歳)

    劉表を頼って入った小さな城。三顧の礼はこの時代。

  3. 3

    公安

    209年ごろ〜211年(49〜51歳)

    赤壁のあと、荊州の南部を得て本拠とした。

  4. 4

    成都

    214年〜222年(54〜62歳)

    劉璋から奪った益州の都。蜀漢の都となる。

  5. 5

    白帝城

    222年〜223年(62〜63歳)

    夷陵の敗戦のあと退き、ここで亡くなった。

地図は215年の勢力図に、拠点の位置を重ねたものです。濃い色が劉備の勢力です。

通説と実像

よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。

後世の創作

関羽・張飛と「桃園の誓い」を結んだ

桃の園で義兄弟の契りを結ぶ場面は『三国志演義』のもの。正史には、3人が「寝るときは同じ床に寝て、兄弟のようだった」とある。

史料にある

諸葛亮を3度訪ねた(三顧の礼)

諸葛亮自身が「出師の表」に、先帝が「三たび臣を草廬の中に顧みた」と書いている。

史料にある

耳が大きく、腕が膝まで届いた

正史に、手を垂らすと膝より下に届き、自分の耳を見ることができたと書かれている。

後世の創作

長坂で、趙雲が救った赤ん坊を地面に投げた

「おまえのために大事な将を失うところだった」と阿斗(劉禅)を投げる場面は演義の創作。正史では、劉備は妻子を置いて逃げ、趙雲が阿斗を守った。

諸説

漢の皇帝の一族の子孫だった

正史には中山靖王劉勝の子孫とあるが、劉勝には100人をこえる子がいたとされ、確かめようがない。

数字で見る劉備

勢力が最も広かった年214年14地域・約135万km²(54歳)
そのときの広さ25%この地図の範囲(中国とその周辺)のうち。その年の勢力の中で1位
世に出てから39年184年、黄巾の乱の討伐に義勇兵として加わる
地図に記された戦い8回三国志 勢力図の出来事のうち、劉備の名前が出てくる戦い
拠点を移した回数4回徐州(下邳) → 新野 → 公安 → 成都 → 白帝

広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。

つながり

主役のバトン

劉備が死んだあと

223年(死んだ時点)
233年(10年後)
9死
61年後
62年後
93年後
94年後
95年後
106年後
107年後
108年後
109年後
1010年後

劉備の勢力は、劉備が死んだ時点で地図の上の9地域。10年後には10地域。勢力の名は「蜀漢」から「蜀漢(劉禅)」に変わった。

死んだ年の勢力図を開く

地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。

同じ時代、世界では

ガレノスローマ・129年〜216年・劉備より32歳年上ローマ帝国の医学者。その医学は千年以上受け継がれた。生没年は諸説ある。
セプティミウス・セウェルスローマ・145年〜211年・劉備より16歳年上アフリカ出身のローマ皇帝。内乱を勝ち抜いて帝位についた。
コンモドゥスローマ・161年〜192年・劉備より同い年マルクス・アウレリウスの子。剣闘士として戦った暴君で、暗殺された。
カラカラローマ・188年〜217年・劉備より27歳年下帝国内の自由人にローマ市民権を与えたローマ皇帝。大浴場を築いた。
アルダシール1世西アジア・生年不詳〜242年パルティアを倒し、ササン朝ペルシアを建てた。
マルクス・アウレリウスローマ・121年〜180年・劉備より40歳年上「哲人皇帝」と呼ばれたローマ皇帝。『自省録』を残した。

劉備が生まれたころの世界

劉備が出てくる合戦絵巻

略年譜(三国志 勢力図の出来事から)

参考