運命の分かれ目
しかし2年後、頼ってきた呂布に徐州を奪われた。曹操のもとに身を寄せ、ともに呂布を滅ぼした。
-
200年1月40歳
曹操のもとを去る
曹操から「天下の英雄は君と私だけだ」と言われ、箸を落としたという話が正史にある。やがて曹操を倒す計画に加わり、徐州で背いた。曹操に攻められて北の袁紹のもとへ逃れ、関羽は一時、曹操に降った。
官渡で袁紹が敗れると、荊州の劉表を頼って新野に入った。
-
207年12月47歳
三顧の礼
隆中にこもっていた諸葛亮の庵を3度訪ねて、ようやく会うことができた。諸葛亮は、荊州と益州を取って孫権と結び、曹操に対抗するという「天下三分の計」を説いた。劉備は「私に孔明がいるのは、魚に水があるようなものだ」と言った。
翌年、曹操の大軍が南下し、劉備は長坂で追いつかれて大敗した。孫権と結び、赤壁で曹操を退けた。
219年、漢中を曹操から奪って漢中王となった。しかし同じ年、荊州を守っていた関羽が孫権に討たれ、荊州を失った。
-
222年6月62歳
夷陵の戦い
221年に皇帝となり(蜀漢)、関羽の仇を討つため孫権を攻めた。しかし夷陵で陸遜の火攻めにあい、大敗した。白帝城に退いた劉備は病に倒れ、翌年、諸葛亮に「わが子の劉禅が助けるに足りなければ、君が国を取れ」と後を託して亡くなった。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
拠点の移り変わり
- 1
徐州(下邳)
194年〜196年(34〜36歳)陶謙からゆずられた最初の州。呂布に奪われた。
- 2
新野
201年〜208年(41〜48歳)劉表を頼って入った小さな城。三顧の礼はこの時代。
- 3
公安
209年ごろ〜211年(49〜51歳)赤壁のあと、荊州の南部を得て本拠とした。
- 4
成都
214年〜222年(54〜62歳)劉璋から奪った益州の都。蜀漢の都となる。
- 5
白帝城
222年〜223年(62〜63歳)夷陵の敗戦のあと退き、ここで亡くなった。
地図は215年の勢力図に、拠点の位置を重ねたものです。濃い色が劉備の勢力です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
後世の創作
関羽・張飛と「桃園の誓い」を結んだ
桃の園で義兄弟の契りを結ぶ場面は『三国志演義』のもの。正史には、3人が「寝るときは同じ床に寝て、兄弟のようだった」とある。
史料にある
諸葛亮を3度訪ねた(三顧の礼)
諸葛亮自身が「出師の表」に、先帝が「三たび臣を草廬の中に顧みた」と書いている。
史料にある
耳が大きく、腕が膝まで届いた
正史に、手を垂らすと膝より下に届き、自分の耳を見ることができたと書かれている。
後世の創作
長坂で、趙雲が救った赤ん坊を地面に投げた
「おまえのために大事な将を失うところだった」と阿斗(劉禅)を投げる場面は演義の創作。正史では、劉備は妻子を置いて逃げ、趙雲が阿斗を守った。
諸説
漢の皇帝の一族の子孫だった
正史には中山靖王劉勝の子孫とあるが、劉勝には100人をこえる子がいたとされ、確かめようがない。
数字で見る劉備
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
家臣
主役のバトン
劉備が死んだあと
劉備の勢力は、劉備が死んだ時点で地図の上の9地域。10年後には10地域。勢力の名は「蜀漢」から「蜀漢(劉禅)」に変わった。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
劉備が生まれたころの世界
- 166年ローマ「大秦王安敦」の使いが後漢に来たと伝えられる
劉備が出てくる合戦絵巻
略年譜(三国志 勢力図の出来事から)
参考
- 陳寿『三国志』蜀書 先主伝(裴松之の注を含む)
- 渡邉義浩『三国志 演義から正史、そして史実へ』(中公新書)