1208年10月〜11月
長江を下る曹操
荊州を降した曹操は、劉表の水軍を加えて江陵から長江を下った。孫権に「水軍80万で呉で狩りをしよう」と手紙を送り、呉の重臣の多くは降伏を勧めた。周瑜と魯粛は開戦を主張し、孫権は机を斬って「降伏を言う者はこの机と同じだ」と決断した。
合戦絵巻 ─ 三国志 勢力図
208年10月〜11月
208年(建安13年)の冬、長江の赤壁で、華北を統一した曹操の大軍を、孫権と劉備の連合軍が破った。周瑜の部将・黄蓋の火攻めで曹操の船団は炎上し、曹操は天下統一の目前で北へ引き上げた。魏・呉・蜀が並び立つ「天下三分」は、この戦いから始まった。
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200年の官渡の戦いで袁紹を破った曹操は、その後の数年で袁氏を滅ぼし、207年には北方の烏桓も討って、華北を統一した。208年には後漢の丞相となり、天下統一の仕上げとして南へ兵を向けた。
このころ荊州を治めていた劉表が病死すると、跡を継いだ劉琮は戦わずに曹操に降った。荊州に身を寄せていた劉備は南へ逃げたが、長坂で曹操の騎兵に追いつかれて大敗し、妻子を置き去りにするほどだった。劉備は劉表の長子・劉琦のいる夏口に逃れた。
曹操は荊州の水軍を手に入れ、江陵から長江を下った。江東の孫権のもとでは、張昭ら重臣の多くが降伏を勧めた。しかし、劉備の使者として来た諸葛亮と、孫権の臣の魯粛・周瑜が開戦を説き、孫権は戦うことを決めた。周瑜と程普がそれぞれ兵を率い、劉備の軍とともに長江をさかのぼった。
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1208年10月〜11月
荊州を降した曹操は、劉表の水軍を加えて江陵から長江を下った。孫権に「水軍80万で呉で狩りをしよう」と手紙を送り、呉の重臣の多くは降伏を勧めた。周瑜と魯粛は開戦を主張し、孫権は机を斬って「降伏を言う者はこの机と同じだ」と決断した。
2208年12月
両軍は赤壁で出会い、最初の戦いで曹操軍は敗れた。北方の兵は船に慣れず、疫病も広がっていた。曹操は北岸の烏林に退き、揺れを抑えるため船をつなぎ合わせたという。
3決戦の日
周瑜の部将・黄蓋は「降伏する」と手紙を送り、油をかけた枯れ草を積んで幕で隠した船10隻を用意した。東南の風が強く吹く日、黄蓋の船は帆を上げて北岸へ向かった。曹操の兵たちは「黄蓋が降伏してきた」と首を伸ばして見ていた。
4決戦の日
曹操の船団まで2里ほどに近づくと、黄蓋の船はいっせいに火を放った。火船は風に乗って突っ込み、つながれた船団は燃え広がって、炎と煙が空を覆った。焼け死んだり溺れたりした兵は数えきれなかった。
5決戦の日
火は岸の上の陣営にも燃え移った。周瑜の精鋭が太鼓を鳴らして攻め込み、曹操軍は総崩れとなった。
6決戦の後
曹操は残った船を焼いて陸路を逃げた。華容道はぬかるみで、弱った兵に草を背負わせて道に敷かせ、多くの兵が人馬に踏まれて死んだ。劉備と周瑜は江陵まで追撃した。
7結果
天下統一を目前にした曹操は大敗し、北へ引き上げた。孫権は江東を守り、劉備は荊州南部を得て勢力を持つきっかけをつかんだ。魏・呉・蜀の「天下三分」はこの戦いから始まった。戦いの規模や経過には諸説があり、疫病による損害も大きかったとされる。
曹操の主力は、華北の平原で戦ってきた兵だった。慣れない船の上で体調を崩す者が多く、疫病も広がっていたと記録されている。荊州の水軍を加えてはいたが、降ったばかりの兵で、士気は高くなかった。
黄蓋は、曹操の船が互いに近く並んでいるのを見て、火攻めを周瑜に進言した。偽りの降伏の手紙を送り、油をかけた枯れ草を積んだ船で近づいて火を放った。強い風が火を広げ、船団と岸の陣営が焼けた。
曹操自身は後に、「疫病があったので船を焼いて自ら退いた。周瑜に名を上げさせてしまった」と孫権に書き送ったという。敗北の大きさには誇張もあると見られ、疫病の損害が大きかったことは確かとされる。
後漢の丞相。この敗戦で天下統一の機会を逃したが、華北の支配は揺るがず、のちに魏公・魏王となった。子の曹丕が220年に後漢から帝位を譲られ、魏を建てた。
孫権軍の総指揮官。この勝利ののち江陵を攻めて曹仁から奪ったが、益州(蜀)を攻める準備の途中、210年に36歳で病死した。
孫堅の代から仕える老将。火攻めを進言し、自ら火船を率いた。戦いの中で矢を受けて水に落ち、危うく助けられたと伝わる。
長坂で大敗したのち、孫権と同盟して赤壁に加わった。戦後、荊州南部の四郡を手に入れ、これが蜀を建てる足がかりとなった。
劉備の使者として孫権のもとへ行き、同盟をまとめた。『三国志演義』では東南の風を祈って呼び寄せるなど大活躍するが、正史の赤壁の場面での活躍は、主に外交である。
孫権の臣。劉備と手を結んで曹操に当たることを早くから説いた。周瑜の死後は、その後を継いで軍を率いた。
曹操は華容道を通って江陵へ逃れ、曹仁に江陵を守らせて北へ帰った。周瑜は1年ほどかけて江陵を攻め落とした。その間に劉備は、長江の南の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を平定し、荊州に自分の地盤を得た。
劉備は211年に益州(蜀)に入り、214年には成都を手に入れた。こうして、華北の曹操、江東の孫権、益州と荊州の劉備が並び立つ形ができあがった。しかし荊州をめぐって孫権と劉備の対立は深まり、219年には呉が関羽を討って荊州を奪うことになる。
小説『三国志演義』には、黄蓋がわざと打たれて降伏を信じさせる「苦肉の計」、龐統が船をつながせる「連環の計」、諸葛亮が霧の中で矢を集める「草船借箭」、東南の風を祈る場面、関羽が華容道で曹操を見逃す場面などが描かれる。これらの多くは、正史『三国志』には見えない創作である。
曹操は「水軍80万」と号した。周瑜は孫権に、曹操が率いる中原の兵は15〜16万、降った荊州の兵は7〜8万ほどだと説いたという。実際に赤壁で戦った兵の数ははっきりせず、20万余りとする見方が多い。
戦場となった「赤壁」の場所には、いくつかの説がある。現在の湖北省赤壁市(旧名は蒲圻)の長江南岸とする説が有力で、そこには「赤壁」と刻まれた崖が残る。宋の蘇軾が「赤壁の賦」を詠んだ黄州の赤壁は、別の場所とされる。
| 200年 | 官渡の戦い。曹操が袁紹を破る |
|---|---|
| 207年 | 曹操が烏桓を討ち、華北を統一。劉備が諸葛亮を迎えたと伝わる |
| 208年7月 | 曹操が荊州へ南征を始める |
| 208年8月 | 劉表が病死。子の劉琮が曹操に降る |
| 208年 | 長坂の戦い。劉備が大敗し、夏口へ逃れる |
| 208年冬 | 赤壁の戦い |
| 209年 | 劉備が荊州南部の四郡を平定。周瑜が江陵を落とす |
| 210年 | 周瑜が病死 |
| 214年 | 劉備が成都を手に入れ、益州の主となる |
| 220年 | 曹丕が魏を建てる。翌年、劉備が蜀漢の皇帝となる |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 曹操本陣(烏林)総大将 | 20万余と号す(実数は諸説) | 敗走 |
| 曹操の船団(楼船) | 荊州の水軍 | 沈没 |
| 連環の船 | 沈没 | |
| 沈没 | ||
| 曹操の騎兵 | 敗走 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 周瑜(大都督)総大将 | 呉軍 約3万 | 勝利 |
| 程普 | ||
| 呉の艨衝 | ||
| 黄蓋の火船 | 10隻 | 沈没 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 劉備総大将 | 約2万(劉琦を含む) | |
| 劉備軍の追撃隊 | 勝利 |
決め手
曹操の船団まで2里ほどに近づくと、黄蓋の船はいっせいに火を放った。火船は風に乗って突っ込み、つながれた船団は燃え広がって、炎と煙が空を覆った。焼け死んだり溺れたりした兵は数えきれなかった。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人(船は1艘)を表します。この合戦は「三国志 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:陳寿『三国志』(裴松之注)、渡邉義浩『三国志 ─ 演義から正史、そして史実へ』(中公新書)