孫

三国志 勢力図の人物

周瑜しゅう ゆ

175年〜210年(数え36歳) / 呉の大都督 / 孫氏・呉

美しい姿と音楽の才で「美周郎」と呼ばれた呉の将。赤壁で曹操の大軍を焼き、36歳で世を去った。

孫策の親友。赤壁で曹操を破った。音楽にも通じ「曲に誤りあれば周郎が振り向く」と言われた。

孫権の勢力

運命の分かれ目

  1. 195年1月21歳

    孫策とともに江東へ

    同い年の孫策とは、少年のころからの親友だった。孫策が江東の平定に乗り出すと、兵と船を連れて加わった。孫策と周瑜は、名高い美人姉妹の大喬・小喬をそれぞれ妻に迎えた。

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  2. 200年、孫策が暗殺された。周瑜は張昭とともに、19歳の孫権を支えた。

  3. 208年12月34歳

    赤壁の戦い

    曹操の大軍を前に降伏論が強いなか、「曹操の軍は北の兵で水に慣れず、疫病も出ている」と説いて開戦を決めさせた。黄蓋の偽りの降伏と火攻めで、赤壁で曹操の船団を焼き払った。

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  4. 209年12月35歳

    江陵を奪う

    赤壁のあと、曹仁の守る江陵を1年あまり攻めて落とした。この戦いで右の脇に矢傷を負った。南郡の太守となり、劉備と荊州を分け合う形になった。

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  5. 周瑜は、劉備を呉にとどめて力をそぎ、自ら益州を取る計画を孫権に説いた。

  6. 210年12月36歳

    益州攻めの途中で病死

    益州攻めの準備のため江陵に戻る途中、巴丘で病に倒れ、36歳で亡くなった。孫権は「周瑜がいなくなって、私は誰を頼ればよいのか」と嘆いた。後任の魯粛は、劉備に荊州を貸す道を選んだ。

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年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。

通説と実像

よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。

史料にある

姿の美しい「美周郎」と呼ばれた

正史に「姿かたちがよい」とあり、若くして高い地位に就いたので、呉の人々は「周郎」と呼んだ。

史料にある

演奏のまちがいに気づくと、必ず振り返った

音楽にくわしく、酒を飲んだあとでも曲のまちがいに気づくと振り向いたので、「曲に誤りあれば周郎顧みる」と言われたと正史にある。

後世の創作

諸葛亮をねたみ、「天はなぜ周瑜を生んで、さらに諸葛亮を生んだのか」と叫んで死んだ

演義では諸葛亮の引き立て役にされたが、正史の周瑜は度量が大きく、人に好かれたと書かれている。

史料にある

赤壁の勝利の立役者だった

正史では、赤壁で曹操を破ったのは周瑜の指揮する呉の軍が中心だった。演義で諸葛亮の活躍が大きく描かれた。

数字で見る周瑜

勢力が最も広かった年210年10地域・約87万km²(36歳)
そのときの広さ16%この地図の範囲(中国とその周辺)のうち。その年の勢力の中で3位
地図に記された戦い3回三国志 勢力図の出来事のうち、周瑜の名前が出てくる戦い

広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。

つながり

主役のバトン

周瑜175年〜210年(数え36歳)

周瑜が死んだあと

210年(死んだ時点)
220年(10年後)
9死
91年後
92年後
93年後
94年後
125年後
126年後
127年後
128年後
159年後
1510年後

孫権の勢力は、周瑜が死んだ時点で地図の上の9地域。10年後には15地域。

死んだ年の勢力図を開く

地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。

同じ時代、世界では

ガレノスローマ・129年〜216年・周瑜より46歳年上ローマ帝国の医学者。その医学は千年以上受け継がれた。生没年は諸説ある。
セプティミウス・セウェルスローマ・145年〜211年・周瑜より30歳年上アフリカ出身のローマ皇帝。内乱を勝ち抜いて帝位についた。
カラカラローマ・188年〜217年・周瑜より13歳年下帝国内の自由人にローマ市民権を与えたローマ皇帝。大浴場を築いた。
コンモドゥスローマ・161年〜192年・周瑜より14歳年上マルクス・アウレリウスの子。剣闘士として戦った暴君で、暗殺された。

周瑜が生まれたころの世界

周瑜が出てくる合戦絵巻

略年譜(三国志 勢力図の出来事から)

参考