運命の分かれ目
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195年1月21歳
孫策とともに江東へ
同い年の孫策とは、少年のころからの親友だった。孫策が江東の平定に乗り出すと、兵と船を連れて加わった。孫策と周瑜は、名高い美人姉妹の大喬・小喬をそれぞれ妻に迎えた。
200年、孫策が暗殺された。周瑜は張昭とともに、19歳の孫権を支えた。
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208年12月34歳
赤壁の戦い
曹操の大軍を前に降伏論が強いなか、「曹操の軍は北の兵で水に慣れず、疫病も出ている」と説いて開戦を決めさせた。黄蓋の偽りの降伏と火攻めで、赤壁で曹操の船団を焼き払った。
周瑜は、劉備を呉にとどめて力をそぎ、自ら益州を取る計画を孫権に説いた。
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210年12月36歳
益州攻めの途中で病死
益州攻めの準備のため江陵に戻る途中、巴丘で病に倒れ、36歳で亡くなった。孫権は「周瑜がいなくなって、私は誰を頼ればよいのか」と嘆いた。後任の魯粛は、劉備に荊州を貸す道を選んだ。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
史料にある
姿の美しい「美周郎」と呼ばれた
正史に「姿かたちがよい」とあり、若くして高い地位に就いたので、呉の人々は「周郎」と呼んだ。
史料にある
演奏のまちがいに気づくと、必ず振り返った
音楽にくわしく、酒を飲んだあとでも曲のまちがいに気づくと振り向いたので、「曲に誤りあれば周郎顧みる」と言われたと正史にある。
後世の創作
諸葛亮をねたみ、「天はなぜ周瑜を生んで、さらに諸葛亮を生んだのか」と叫んで死んだ
演義では諸葛亮の引き立て役にされたが、正史の周瑜は度量が大きく、人に好かれたと書かれている。
史料にある
赤壁の勝利の立役者だった
正史では、赤壁で曹操を破ったのは周瑜の指揮する呉の軍が中心だった。演義で諸葛亮の活躍が大きく描かれた。
数字で見る周瑜
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
主役のバトン
周瑜が死んだあと
孫権の勢力は、周瑜が死んだ時点で地図の上の9地域。10年後には15地域。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
周瑜が生まれたころの世界
- 166年ローマ「大秦王安敦」の使いが後漢に来たと伝えられる
- 180年ローマ五賢帝の時代の終わり
周瑜が出てくる合戦絵巻
略年譜(三国志 勢力図の出来事から)
参考
- 陳寿『三国志』呉書 周瑜伝(裴松之の注を含む)