運命の分かれ目
208年、父の仇の黄祖を討った。同じ年、荊州を降した曹操が大軍で長江を下ってきた。
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208年12月27歳
赤壁の戦い
降伏を説く重臣も多いなか、周瑜と魯粛の意見をいれて、曹操と戦うと決めた。刀で机を斬って「これ以上降伏を言う者は、この机と同じだ」と言ったという。劉備と結び、周瑜が赤壁で曹操を破った。
荊州をめぐって劉備と争うようになり、215年に荊州を分けて和解した。同じ年、合肥で張遼に大敗した。
その後、魏とも手を切って自立し、劉備の死後は蜀と再び同盟を結んだ。
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229年4月48歳
皇帝となる
武昌で皇帝の位につき、都を建業(いまの南京)に移した。三国の皇帝がそろった。しかし晩年は、後継ぎをめぐる争い(二宮の変)で、多くの重臣を失った。252年、71歳で亡くなった。三国の君主の中で、最も長く生きた。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
本拠の移り変わり
- 1
呉
200年ごろ〜208年(19〜27歳)兄の孫策から受け継いだ江東の中心。
- 2
京口
209年ごろ〜211年(28〜30歳)長江に面した要地。
- 3
建業
211年〜221年(30〜40歳)秣陵を建業と改めて本拠とした。
- 4
武昌
221年〜229年(40〜48歳)荊州と蜀ににらみをきかせるため移った。ここで皇帝となった。
- 5
建業(呉の都)
229年〜252年(48〜71歳)皇帝となって都を戻した。のちの南京。
地図は225年の勢力図に、本拠の位置を重ねたものです。濃い色が孫権の勢力です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
史料にある
曹操に「子を持つなら孫権のような子がほしい」とほめられた
正史の注に引く『呉歴』に、曹操が孫権の軍の整い方を見て、こう言ったとある。
史料にある
机を斬って、曹操と戦うと決めた
正史の注に引く『江表伝』に見える話。
諸説
目は碧く、ひげは紫だった
『三国志演義』などで「碧眼紫髯」とされる。正史の注には、孫権を「あごが張り口が大きい」と書くものはあるが、目の色は書かれていない。
史料にある
晩年は、後継ぎ争いで国を傾けた
太子の孫和と、弟の孫覇の争いに重臣たちが分かれ、陸遜は孫権に責められて憤死したと正史にある。
数字で見る孫権
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
家臣
主役のバトン
孫権が死んだあと
孫権の勢力は、孫権が死んだ時点で地図の上の18地域。10年後には18地域。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
孫権が生まれたころの世界
- 180年ローマ五賢帝の時代の終わり
- 192年ローマローマ皇帝コンモドゥスの暗殺
孫権が出てくる合戦絵巻
略年譜(三国志 勢力図の出来事から)
参考
- 陳寿『三国志』呉書 呉主伝(裴松之の注を含む)