運命の分かれ目
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200年4月
白馬で顔良を斬る
劉備が曹操に敗れて袁紹のもとへ逃れたとき、関羽は捕らえられて曹操に降った。曹操は関羽を厚くもてなした。関羽は白馬の戦いで、袁紹の大将の顔良を大軍の中で斬り、恩を返した。そして、もらった贈り物に封をして残し、劉備のもとへ去った。
曹操は、追おうとする部下を「人にはそれぞれの主君がいる」と止めたという。
劉備が益州に入ると、関羽は荊州の守りをまかされた。
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219年8月
樊城を囲み、その名は中国を震わせた
荊州から北へ攻め上り、曹仁の守る樊城を囲んだ。長雨で漢水があふれ、援軍の于禁の軍は水に流されて降った。曹操は、都を移すことを考えるほどあわてたという。
しかしそのすきに、同盟を結んでいたはずの孫権の将・呂蒙が、関羽の本拠の荊州を奪った。
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219年12月
麦城で捕らえられる
帰るところを失った関羽の軍はばらばらになり、関羽は麦城から逃れようとしたところを呉の軍に捕らえられ、斬られた。劉備は関羽の仇を討つため、のちに呉を攻めることになる。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
後世の創作
青龍偃月刀をふるった
演義で関羽の武器とされる大きななぎなた状の刀は、宋の時代以降に現れた形のもので、三国時代にはなかったと考えられている。
後世の創作
5つの関所で6人の将を斬って劉備のもとへ帰った
「五関に六将を斬る」は演義の名場面。正史では、関羽は曹操にあいさつの手紙を残して去り、追手は出されなかった。
史料にある
顔良を大軍の中で斬った
白馬の戦いで、袁紹の大将の顔良を見つけて馬を走らせ、大軍の中で刺して首を取ったと、正史の関羽伝にある。
諸説
名医の華佗に、碁を打ちながら毒矢の傷を手術させた
腕の骨を削る手術を受けながら、平然と酒宴を続けた話は正史にある。ただし医者の名は書かれておらず、華佗とするのは演義。華佗はそれより前に亡くなっていた。
史料にある
死後、神としてまつられた
忠義と武勇の象徴として、のちの王朝で神にまつりあげられ、商売の神としても信仰された。横浜や神戸の中華街にも関帝廟がある。
数字で見る関羽
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
主役のバトン
関羽が死んだあと
劉備の勢力は、関羽が死んだ時点で地図の上の9地域。10年後には10地域。勢力の名は「漢中王劉備」から「蜀漢(劉禅)」に変わった。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
関羽が出てくる合戦絵巻
略年譜(三国志 勢力図の出来事から)
参考
- 陳寿『三国志』蜀書 関羽伝(裴松之の注を含む)
- 渡邉義浩『関羽 神になった「三国志」の英雄』(筑摩選書)