運命の分かれ目
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207年12月27歳
三顧の礼と天下三分の計
若くして父を亡くし、荊州の隆中で田を耕しながら学んでいた。訪ねてきた劉備に、荊州と益州を取り、孫権と結んで曹操に対抗する「天下三分の計」を説いた。27歳だった。
翌年、曹操が南下すると、自ら孫権のもとに使いして同盟をまとめた。赤壁の戦いで曹操は退いた。
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214年5月34歳
蜀に入る
劉備が益州の劉璋と戦い始めると、張飛・趙雲とともに長江をさかのぼって蜀に入り、成都の包囲に加わった。劉備が成都を得ると、軍師将軍として留守と内政をまかされた。
221年、劉備が皇帝になると丞相となった。しかし翌年、夷陵の大敗で多くの兵を失った。
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223年4月43歳
白帝城で後を託される
死の床の劉備から、「わが子の劉禅が助けるに足りれば助け、才がなければ、君が自ら国を取れ」と後を託された。諸葛亮は涙を流して、命をかけて劉禅を支えると誓った。
呉と再び同盟を結び、225年には南中の反乱を自ら討って平定した。
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228年5月48歳
街亭の戦い ─ 泣いて馬謖を斬る
「出師の表」を劉禅に差し出し、魏を討つため北へ兵を出した(北伐)。しかし、先鋒をまかせた馬謖が命令にそむいて山上に陣を敷き、街亭で大敗した。諸葛亮は、かわいがっていた馬謖を軍法に従って斬った。
その後も北伐をくり返し、木牛・流馬と呼ばれる道具で兵糧を運ぶ工夫をした。
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234年8月54歳
五丈原の陣没
五度目の北伐で、五丈原に陣を敷いて司馬懿と100日あまりにらみ合った。司馬懿は守りを固めて戦おうとしなかった。陣中で病が重くなり、54歳で亡くなった。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
居所の移り変わり
- 1
隆中
197年ごろ〜207年(17〜27歳)荊州の襄陽の近くで、田を耕しながら学んだ地。
- 2
成都
214年〜227年(34〜47歳)蜀漢の都。丞相として政治を動かした。
- 3
漢中
227年〜234年(47〜54歳)北伐の拠点。
- 4
五丈原
234年〜234年(54〜54歳)最後の陣。ここで亡くなった。
地図は230年の勢力図に、居所の位置を重ねたものです。濃い色が蜀漢の勢力です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
史料にある
「天下三分の計」を説いた
正史の諸葛亮伝に、劉備に説いた策(隆中対)がくわしく書かれている。
後世の創作
赤壁で、祈って東南の風を吹かせた
『三国志演義』の名場面。正史には諸葛亮が赤壁の戦場で何をしたかはほとんど書かれていない。
後世の創作
城門を開け放って敵を退けた(空城の計)
正史の注に似た話が引かれているが、注をつけた裴松之自身が「ありえない」と退けている。演義でふくらまされた。
諸説
南中の孟獲を7回捕らえて7回放した(七縦七擒)
正史の本文にはなく、注に引く『漢晋春秋』に見える話。南中の人々を心から従わせるためだったとされる。
史料にある
泣いて馬謖を斬った
街亭の敗戦の責任を問い、馬謖を処刑し、涙を流したと正史にある。自らも位を3段下げた。
数字で見る諸葛亮
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
主役のバトン
諸葛亮が死んだあと
蜀漢の勢力は、諸葛亮が死んだ時点で地図の上の10地域。10年後には10地域。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
諸葛亮が生まれたころの世界
- 180年ローマ五賢帝の時代の終わり
諸葛亮が出てくる合戦絵巻
略年譜(三国志 勢力図の出来事から)
参考
- 陳寿『三国志』蜀書 諸葛亮伝(裴松之の注を含む)
- 渡邉義浩『諸葛亮孔明 その虚像と実像』(新人物往来社)