運命の分かれ目
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208年6月30歳
曹操に召し出される
河内の名家に生まれた。はじめ曹操の招きを病気と言って断ったが、丞相となった曹操に強く求められて仕えた。曹操は、司馬懿の野心を見抜いて警戒していたともいわれる。
曹操の子の曹丕と親しくなり、曹丕が魏の皇帝になると重く用いられた。
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228年1月50歳
孟達の反乱を電撃的に鎮める
蜀に寝返ろうとした新城の孟達を、上奏の返事を待たずに8日で1200里を進んで急襲し、討ち取った。孟達は、司馬懿が来るのは1か月はかかると思っていた。
曹真の死後、蜀の諸葛亮の北伐を防ぐ総大将になった。
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234年8月56歳
五丈原で諸葛亮とにらみ合う
五丈原に陣を敷いた諸葛亮に対し、守りを固めて戦わなかった。諸葛亮が女物の衣服を送って挑発しても動かなかった。諸葛亮が陣中で亡くなると、蜀軍は退いた。
238年、遼東の公孫淵を攻め滅ぼした。翌年、皇帝の曹叡が亡くなり、幼い曹芳の後見を曹爽とともに託された。
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249年1月71歳
高平陵の変
曹爽に実権を奪われ、病気が重いふりをして油断させた。曹爽が皇帝とともに都を出て墓参りに行ったすきに、兵を挙げて都を押さえ、曹爽の一族を滅ぼした。71歳だった。魏の実権は司馬氏のものとなった。
2年後の251年、73歳で亡くなった。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
史料にある
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」
諸葛亮の死後、退く蜀軍を追った司馬懿が、蜀軍が向きを変えたのを見て退いたので、人々がこう言ったと、正史の注に引く『漢晋春秋』にある。司馬懿は「生きている者のことはわかるが、死んだ者のことはわからない」と笑ったという。
史料にある
病気のふりをして、曹爽を油断させた
見舞いに来た曹爽の部下の前で、粥をこぼし、話もかみ合わないふりをしたと『晋書』にある。
諸説
首が真後ろまで回った(狼顧の相)
体を動かさずに顔だけ真後ろに向けられたので、曹操が警戒したという話が『晋書』にある。野心家であることを示す逸話として書かれたものとみられる。
史料にある
諸葛亮に送られた女物の服を受け取った
挑発のために女物の衣服を送られても怒らず、守りを固め続けたと正史の注にある。
数字で見る司馬懿
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
主役のバトン
司馬懿が死んだあと
魏の勢力は、司馬懿が死んだ時点で地図の上の42地域。15年後には、魏の色の地域はなくなった。死んだ時点の魏の地域は、15年後には晋が42地域を支配していた。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
司馬懿が生まれたころの世界
- 180年ローマ五賢帝の時代の終わり
司馬懿が出てくる合戦絵巻
略年譜(三国志 勢力図の出来事から)
参考
- 陳寿『三国志』魏書(裴松之の注を含む)
- 房玄齢ほか『晋書』宣帝紀