1234年4月
五丈原に布陣
諸葛亮は10万の兵で斜谷を越え、渭水の南の台地・五丈原に陣を敷いた。司馬懿は渭水を背にして陣を築き、守りを固めた。
合戦絵巻 ─ 三国志 勢力図
234年4月
234年(建興12年・青龍2年)、雍州の五丈原(いまの陝西省宝鶏市)で、蜀の諸葛亮が魏の司馬懿と100日あまりにらみ合った。司馬懿は守りを固めて戦おうとせず、そのさなかの8月、諸葛亮は陣中で病没した。蜀軍が撤退すると、追ってきた司馬懿は反撃の構えに驚いて引き返し、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の言葉が生まれた。
上の観戦プレイヤーでは、蜀軍(諸葛亮)約10万と魏軍(司馬懿)—の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
223年に劉備が亡くなると、丞相の諸葛亮が蜀の政治と軍を担った。諸葛亮は呉との同盟を回復させ、南の反乱を鎮めたあと、227年に「出師表」を奉って、魏を討つ北伐を始めた。
北伐は5度にわたった。228年の第1次北伐では、馬謖が街亭で敗れて撤退した(泣いて馬謖を斬る)。その後も、険しい山道を越えて兵糧を運ぶのが難しく、蜀軍は勝っても長く戦い続けることができなかった。
234年、諸葛亮は10万ともいわれる軍を率いて最後の北伐に出た。今度は兵に畑を耕させながら、腰を据えて戦うつもりだった。
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1234年4月
諸葛亮は10万の兵で斜谷を越え、渭水の南の台地・五丈原に陣を敷いた。司馬懿は渭水を背にして陣を築き、守りを固めた。
2234年4月〜5月
諸葛亮は渭水の北に出て、魏の西方との連絡を断とうとした。しかし郭淮が先回りして北原を固め、蜀軍は渡河できなかった。
3234年5月〜7月
諸葛亮は兵に畑を耕させ、地元の住民と一緒に暮らさせて長期戦に備えた。戦おうとしない司馬懿に女物の着物を贈って挑発したが、司馬懿は皇帝の命令を理由に動かなかった。
4234年8月
諸葛亮は激務で体をこわしていた。使者から「丞相は朝早く起き、夜遅く寝て、罰杖20以上の案件はすべて自分で見る。食事はわずかだ」と聞いた司馬懿は、「長くはもたないだろう」と言った。8月、諸葛亮は陣中で亡くなった。54歳。
5234年8月
蜀軍は諸葛亮の死を隠して撤退を始めた。司馬懿が追うと、姜維らは旗を返し太鼓を鳴らして迎え撃つ構えを見せた。司馬懿は諸葛亮の策略を恐れて引き返し、人々は「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と笑った。司馬懿は「生きている者のことは測れるが、死んだ者のことは測れない」と答えたという。
6結果
諸葛亮の死で北伐は終わった。司馬懿は蜀軍の陣の跡を見て回り、「天下の奇才だ」と感嘆したという。蜀軍はこの後、撤退の途中で魏延と楊儀が争い、魏延が殺された。諸葛亮の北伐は魏の領土をほとんど得られなかったが、弱小の蜀が大国の魏に攻勢をかけ続けたことは、後世長く称えられた。
司馬懿は渭水を背に陣を固め、決して戦おうとしなかった。遠くから来た蜀軍は兵糧が続かないことを知っていたからである。諸葛亮が女物の着物を贈って挑発しても、皇帝の命令を理由に動かなかった。
諸葛亮は兵に畑を耕させ、地元の住民とまじって暮らさせて、長く戦えるようにした。兵糧の運搬には「木牛流馬」と呼ばれる道具も使ったとされる。
諸葛亮は、細かな仕事まで自分で見るほど激務を続けて体を壊していた。100日あまりの対陣のすえ、陣中で亡くなった。蜀の北伐は、ここで終わった。
蜀の丞相。劉備に「三顧の礼」で迎えられ、天下三分の計を説いた。この陣中で54歳で亡くなった。後世、忠臣・名軍師の手本として広く敬われた。
魏の将。諸葛亮の死を知って蜀軍の陣の跡を見て回り、「天下の奇才だ」と感嘆したという。のちに魏の実権を握り、孫の司馬炎が晋を建てる。
魏から降った若い将で、諸葛亮に才を見こまれた。撤退の殿をつとめ、のちに蜀の北伐を引き継いだ。
勇猛な蜀の将。諸葛亮の死後、撤退をめぐって楊儀と争い、殺された。
諸葛亮の死で北伐は終わった。撤退の途中、魏延と楊儀が争い、魏延が殺された。蜀はその後、姜維が北伐を続けたが、国力は疲れ、263年に魏に滅ぼされた。
魏では、諸葛亮を退けた司馬懿の力が強まった。249年、司馬懿はクーデターで魏の実権を握り、その孫の司馬炎が265年に晋を建てる。280年、晋が呉を滅ぼして、三国時代は終わった。
この言葉は正史の注に引かれた記録に見え、当時の人々が司馬懿をからかって言ったものとされる。司馬懿は「生きている者のことは測れるが、死んだ者のことは測れない」と答えたという。小説の『三国志演義』では、諸葛亮の木像を車に乗せて司馬懿を驚かせたことになっているが、これは創作である。
北伐は魏の領土をほとんど得られず、国力の小さい蜀を疲れさせただけだったという厳しい見方がある。一方、攻め続けることで、魏が蜀を攻める余裕を与えなかった「攻撃的な防御」だったとする見方もある。
| 207年 | 三顧の礼。諸葛亮が劉備に仕える |
|---|---|
| 223年 | 劉備が死去 |
| 227年 | 諸葛亮が「出師表」を奉る |
| 228年 | 第1次北伐。街亭の戦い |
| 234年8月 | 五丈原で諸葛亮が死去 |
| 249年 | 司馬懿のクーデター(高平陵の変) |
| 263年 | 蜀が魏に滅ぼされる |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 諸葛亮本陣総大将 | 10万(諸説) | |
| 魏延 | ||
| 姜維 | 勝利 | |
| 屯田の兵 | ||
| 木牛流馬(兵糧の輸送) |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 司馬懿本陣総大将 | 逃走 | |
| 郭淮 | ||
| 魏の騎兵 | 逃走 | |
| 魏の弩兵 | 傍観 |
決め手
蜀軍は諸葛亮の死を隠して撤退を始めた。司馬懿が追うと、姜維らは旗を返し太鼓を鳴らして迎え撃つ構えを見せた。司馬懿は諸葛亮の策略を恐れて引き返し、人々は「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と笑った。司馬懿は「生きている者のことは測れるが、死んだ者のことは測れない」と答えたという。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「三国志 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:陳寿『三国志』、渡邉義浩『三国志 ─ 演義から正史、そして史実へ』(中公新書)