合戦絵巻 ─ 三国志 勢力図

官渡の戦い烏巣の夜襲

200年2月〜10月(建安5年) / 司隷・兗州 官渡

200年4月

白馬の戦い ─ 関羽、顔良を斬る

1粒=約100人

200年(建安5年)、黄河の南の官渡で、曹操が河北の覇者・袁紹の大軍を破った。数か月にわたる対陣の末、袁紹の参謀・許攸の寝返りをきっかけに、曹操は自ら烏巣の兵糧庫を夜襲して焼き払った。少ない兵で大軍を破ったこの戦いで、曹操は華北統一への道を開いた。

上の観戦プレイヤーでは、袁紹軍約11万と曹操軍約2.5万、あわせて約14万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの8つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

袁紹軍
約11万
曹操軍
約2.5万
いつ
200年4月 → 結果

なぜ戦ったのか

後漢の末、各地の群雄が争うなかで、名門の袁紹は冀州・青州・幷州を押さえ、199年には幽州の公孫瓚を滅ぼして、黄河の北をほぼ手中に収めた。一方の曹操は、196年に後漢の献帝を許に迎えて、朝廷を後ろ盾にした。両者はかつて反董卓の連合軍で共に戦った旧友だったが、天下をめぐって対立は避けられなくなった。

200年の初め、徐州で曹操に背いた劉備を曹操が急襲して破り、劉備は袁紹のもとへ逃げ、関羽は曹操に降った。袁紹の参謀・田豊は、曹操が東へ出ているすきに許を突くよう勧めたが、袁紹は子の病を理由に動かなかったという。

2月、袁紹は大軍を南へ進め、黄河を渡る足がかりとして、顔良に白馬を攻めさせた。袁紹の兵は10万余りとされ、曹操の兵はそれよりずっと少なかった。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

1200年4月

白馬の戦い ─ 関羽、顔良を斬る

袁紹は黄河を渡って顔良に白馬を攻めさせた。曹操は荀攸の策で延津から渡河すると見せかけて袁紹の目をそらし、急いで白馬を救った。関羽が敵陣に駆け込んで顔良を刺し殺し、その首を持ち帰った。

2200年4月

延津の戦い ─ 文醜の最期

追ってきた文醜の騎兵に、曹操はわざと輜重(荷物)を道に捨てさせた。袁紹軍の兵が荷物を奪い合って乱れたところを攻め、文醜を討った。関羽はこの後、曹操の贈り物に封をして劉備のもとへ去った。

3200年8月〜9月

官渡での対陣

袁紹は主力を官渡の北に進め、土の山や櫓を築いて曹操の陣に矢を雨のように射込んだ。曹操は石を飛ばす「発石車」で櫓を壊し、地下道には堀を掘って対抗した。兵糧が乏しくなり、曹操は一時撤退を考えたが、荀彧に励まされて踏みとどまった。

4200年10月

許攸の寝返り

袁紹の参謀・許攸は、自分の献策が聞き入れられず、家族が罪に問われたことに怒って曹操のもとへ走った。「烏巣に兵糧が集まっていて、守りは手薄だ」と告げると、曹操ははだしで出迎えて喜んだという。

5200年10月 夜

烏巣の夜襲

曹操は自ら5000の兵を率い、袁紹軍の旗を掲げて夜道を進んだ。兵は薪を背負い、馬の口を縛って声を出させなかった。夜明けに烏巣を襲って火を放ち、1万台の車の兵糧を焼き払った。守将の淳于瓊は捕らえられて殺された。

6200年10月

張郃・高覧の寝返り

烏巣が襲われたと聞いた袁紹は、救援を少なくして、張郃・高覧に曹操の本陣を攻めさせた。しかし本陣は落ちず、烏巣が焼けたと知った二人は、罪に問われるのを恐れて曹操に降った。

7200年10月

袁紹軍の崩壊

袁紹軍は総崩れとなった。袁紹は息子の袁譚とわずか800騎で黄河を渡って逃げ、降伏した兵7万余り(諸説)は生き埋めにされたという。曹操は袁紹の陣で、自分の部下が袁紹に送った手紙を見つけたが、読まずに焼き捨てた。

8結果

官渡の戦いの結果

兵力で大きく劣った曹操が、河北の覇者・袁紹を破った。袁紹は2年後に病死し、息子たちの争いの中で袁氏は滅んだ。曹操は華北を統一し、天下の最有力者となった。少ない兵で大軍を破った例として、赤壁・淝水とともに「三大戦役」に数えられることもある。

勝敗を分けたもの

許攸の寝返り

袁紹の参謀・許攸は、自分の策が用いられず、家族が罪に問われたことに怒って曹操に降った。袁紹軍の兵糧が烏巣に集められ、守りが手薄だという情報が、戦いの流れを変えた。

烏巣の夜襲

曹操は自ら5000の兵を率いて烏巣を急襲し、兵糧を焼き払った。本陣を留守にする大きな賭けだったが、兵糧を失った袁紹軍は士気がくずれた。

袁紹陣営のまとまりのなさ

袁紹のもとには有能な参謀が多かったが、意見が割れ、袁紹は決断が遅かった。烏巣が襲われたときも、救援を十分に送らず、曹操の本陣を攻めさせた張郃・高覧は、失敗すると曹操に降ってしまった。

主な武将とその後

曹操曹操軍

この勝利で華北の覇権を握った。袁紹の陣で、自分の部下が袁紹に送っていた手紙の束を見つけたが、読まずに焼き捨て、罪を問わなかったという話が伝わる。

袁紹袁紹軍

四代にわたって三公を出した名門の出身。敗れて河北へ逃げ帰ったのち、202年に病死した。跡継ぎを決めないまま死んだため、子の袁譚と袁尚が争い、袁氏は滅んだ。

許攸袁紹軍 → 曹操軍

曹操とは若いころからの知り合いだった。勝利の立て役者となったが、その功を誇って曹操をないがしろにする言動が多く、のちに処刑された。

関羽曹操軍

劉備と離れて曹操のもとにいた。白馬で顔良を斬って曹操への恩を返すと、贈り物に封をして劉備のもとへ去った。曹操は追わせなかった。

張郃袁紹軍 → 曹操軍

袁紹の将だったが、この戦いで曹操に降り、以後は魏の名将として長く活躍した。231年、諸葛亮の北伐を迎え撃つなかで戦死した。

田豊袁紹軍

袁紹の参謀。持久戦を説いて出陣に反対したため投獄された。袁紹が敗れると、「あざ笑われる」ことを恐れた袁紹に処刑されたと伝わる。

合戦のあと

官渡で敗れたのちも、袁紹の勢力はすぐには消えなかった。しかし202年に袁紹が死ぬと、子の袁譚と袁尚が跡目を争い、曹操はそのすきを突いた。204年に本拠の鄴を落とし、205年に袁譚を、207年には遼東へ逃れた袁尚・袁熙を公孫康の手で討たせて、華北を統一した。

華北を手に入れた曹操は、208年に丞相となり、天下統一の仕上げとして南へ兵を進める。それが赤壁の戦いである。

諸説と論点

曹操の兵は本当に少なかったのか

正史『三国志』は、曹操の兵は1万に満たず、負傷者も多かったと書く。しかし注をつけた裴松之は、数か月も大軍と対陣した軍が1万足らずとは考えにくく、これは少ない兵で勝ったことを強調する書き方だろうと疑っている。兵力の差が大きかったことは確かだが、正確な数はわからない。

文醜を斬ったのは誰か

『三国志演義』では、関羽が顔良と文醜の二人を斬る。正史では、関羽が斬ったのは顔良だけで、文醜は延津で曹操軍に討たれた。

捕虜を生き埋めにした話

降った袁紹の兵を生き埋めにしたという話は正史の注などに見えるが、その数には誇張があると見られている。

関連年表

196年曹操が献帝を許に迎える
199年袁紹が公孫瓚を滅ぼし、河北をほぼ統一
200年1月曹操が徐州の劉備を破る。関羽が曹操に降る
200年4月白馬の戦い・延津の戦い。顔良・文醜が討たれる
200年8月〜10月官渡で両軍が対陣。許攸が寝返り、曹操が烏巣を焼く
202年袁紹が病死
204年曹操が袁氏の本拠・鄴を落とす
207年袁尚・袁熙が遼東で討たれ、曹操が華北を統一
208年曹操が丞相となり、南征。赤壁の戦い

両軍の陣容

袁紹軍約11万

部隊兵力その後
袁紹本陣総大将約10万(諸説)敗走
顔良討死・壊滅
文醜騎兵討死・壊滅
張郃寝返り
高覧寝返り
弓兵(土山の櫓)敗走
許攸袁紹の参謀寝返り
淳于瓊(兵糧庫)1万討死・壊滅

曹操軍約2.5万

部隊兵力その後
曹操本陣総大将約2万(諸説)勝利
関羽(曹操の客将)
発石車・弓兵
曹操自ら率いる騎兵5000勝利
曹洪(留守)

決め手

烏巣の夜襲

曹操は自ら5000の兵を率い、袁紹軍の旗を掲げて夜道を進んだ。兵は薪を背負い、馬の口を縛って声を出させなかった。夜明けに烏巣を襲って火を放ち、1万台の車の兵糧を焼き払った。守将の淳于瓊は捕らえられて殺された。

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「三国志 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:陳寿『三国志』(裴松之注)