袁

三国志 勢力図の人物

袁紹えん しょう

生年不詳〜202年 / 冀州牧・大将軍 / 袁紹

4代続けて最高の官職を出した名門に生まれ、華北の4州を手にした最大の群雄。官渡の一戦で、すべてを曹操に奪われた。

名門の出身で反董卓連合の盟主。河北を制したが官渡で敗れた。

袁紹の勢力

運命の分かれ目

  1. 189年8月

    宦官を皆殺しにする

    大将軍の何進が宦官に殺されると、兵を率いて宮中に入り、宦官2000人あまりを殺した。しかしそのすきに、董卓が幼い皇帝を手に入れて都の実権を握った。袁紹は董卓と対立して都を去った。

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  2. 190年1月

    反董卓連合の盟主となる

    名門の出として諸侯に推され、反董卓連合軍の盟主となった。しかし諸侯はそれぞれの思わくで動かず、連合はまもなく崩れた。

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  3. 191年、冀州の韓馥を脅して、冀州をゆずらせた。

  4. 199年3月

    易京で公孫瓚を滅ぼす

    北の幽州の公孫瓚と長く争い、易京の要塞を地下道を掘って攻め落とした。冀州・青州・幽州・并州の4州を治める、天下最大の群雄となった。

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  5. 献帝を許に迎えて勢いを増す曹操と、ついに対決することになった。

  6. 200年10月

    官渡の戦い

    10万の大軍で南へ進み、官渡で曹操とにらみ合った。しかし、参謀の許攸が曹操のもとに寝返り、兵糧を集めていた烏巣を焼かれて、全軍が崩れた。わずかな兵とともに黄河の北へ逃げ帰った。

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  7. 2年後の202年、病に倒れて亡くなった。後継ぎを決めていなかったため、息子たちが争い、曹操に次々に滅ぼされた。

年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。

通説と実像

よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。

史料にある

4代続けて三公を出した名門「四世三公」

袁氏は、宰相にあたる三公の位に4代にわたって人を出した、後漢きっての名門だった。

史料にある

官渡で、すぐれた策を何度も退けた

正史では、田豊や沮授の進言を聞かず、許攸の策も用いなかったため、許攸は曹操に寝返ったとある。

史料にある

負けたあと、正しい進言をした田豊を殺した

出陣に反対して牢に入れられていた田豊を、敗戦のあと、笑われるのを恐れて殺したと正史にある。

諸説

優柔不断で、決断できない人だった

正史を書いた陳寿は、袁紹を「外見は寛大だが、内心はねたみ深く、謀りごとを好むが決断できない」と評した。ただ、敗者として低く描かれた面もあるとする見方がある。

数字で見る袁紹

勢力が最も広かった年199年13地域・約39万km²
そのときの広さ7%この地図の範囲(中国とその周辺)のうち。その年の勢力の中で6位
地図に記された戦い3回三国志 勢力図の出来事のうち、袁紹の名前が出てくる戦い

広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。

つながり

主役のバトン

袁紹が死んだあと

202年(死んだ時点)
208年(6年後)
13死
131年後
132年後
33年後
14年後
15年後
06年後
07年後
08年後
09年後
010年後

袁紹の勢力は、袁紹が死んだ時点で地図の上の13地域。6年後には、袁紹の色の地域はなくなった。死んだ時点の袁紹の地域は、6年後には曹操が13地域を支配していた。

死んだ年の勢力図を開く

地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。

同じ時代、世界では

ガレノスローマ・129年〜216年・袁紹より129歳年下ローマ帝国の医学者。その医学は千年以上受け継がれた。生没年は諸説ある。
マルクス・アウレリウスローマ・121年〜180年・袁紹より121歳年下「哲人皇帝」と呼ばれたローマ皇帝。『自省録』を残した。
セプティミウス・セウェルスローマ・145年〜211年・袁紹より145歳年下アフリカ出身のローマ皇帝。内乱を勝ち抜いて帝位についた。
コンモドゥスローマ・161年〜192年・袁紹より161歳年下マルクス・アウレリウスの子。剣闘士として戦った暴君で、暗殺された。
イエス西アジア・前4年〜30年・袁紹より4歳年上キリスト教の祖。生没年は諸説ある。
カラカラローマ・188年〜217年・袁紹より188歳年下帝国内の自由人にローマ市民権を与えたローマ皇帝。大浴場を築いた。

袁紹が出てくる合戦絵巻

略年譜(三国志 勢力図の出来事から)

参考