運命の分かれ目
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189年8月
宦官を皆殺しにする
大将軍の何進が宦官に殺されると、兵を率いて宮中に入り、宦官2000人あまりを殺した。しかしそのすきに、董卓が幼い皇帝を手に入れて都の実権を握った。袁紹は董卓と対立して都を去った。
191年、冀州の韓馥を脅して、冀州をゆずらせた。
献帝を許に迎えて勢いを増す曹操と、ついに対決することになった。
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200年10月
官渡の戦い
10万の大軍で南へ進み、官渡で曹操とにらみ合った。しかし、参謀の許攸が曹操のもとに寝返り、兵糧を集めていた烏巣を焼かれて、全軍が崩れた。わずかな兵とともに黄河の北へ逃げ帰った。
2年後の202年、病に倒れて亡くなった。後継ぎを決めていなかったため、息子たちが争い、曹操に次々に滅ぼされた。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
史料にある
4代続けて三公を出した名門「四世三公」
袁氏は、宰相にあたる三公の位に4代にわたって人を出した、後漢きっての名門だった。
史料にある
官渡で、すぐれた策を何度も退けた
正史では、田豊や沮授の進言を聞かず、許攸の策も用いなかったため、許攸は曹操に寝返ったとある。
史料にある
負けたあと、正しい進言をした田豊を殺した
出陣に反対して牢に入れられていた田豊を、敗戦のあと、笑われるのを恐れて殺したと正史にある。
諸説
優柔不断で、決断できない人だった
正史を書いた陳寿は、袁紹を「外見は寛大だが、内心はねたみ深く、謀りごとを好むが決断できない」と評した。ただ、敗者として低く描かれた面もあるとする見方がある。
数字で見る袁紹
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
主役のバトン
袁紹が死んだあと
袁紹の勢力は、袁紹が死んだ時点で地図の上の13地域。6年後には、袁紹の色の地域はなくなった。死んだ時点の袁紹の地域は、6年後には曹操が13地域を支配していた。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
袁紹が出てくる合戦絵巻
略年譜(三国志 勢力図の出来事から)
参考
- 陳寿『三国志』魏書 袁紹伝(裴松之の注を含む)