運命の分かれ目
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190年1月36歳
反董卓の兵を挙げる
董卓が洛陽で皇帝を思うままにすると、曹操は都を逃れ、私財を投じて兵を集めた。各地の諸侯が反董卓連合を結んでも様子見を続けるなか、曹操は自ら董卓軍を追って戦い、敗れて矢傷を負った。
192年、青州の黄巾軍30万を降して、その精鋭を「青州兵」とした。兗州を地盤にしたが、194年に徐州を攻めている間に、呂布に兗州のほとんどを奪われかけた。
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196年8月42歳
献帝を許に迎える
長安から逃れて荒れた洛陽にいた献帝を、自分の本拠の許に迎えた。こののち曹操は、皇帝の名で諸侯に命令を出せるようになった。同じ年、荒れた土地に民を住まわせて耕させる屯田を始め、兵糧の心配をなくした。
198年、下邳で呂布を捕らえて処刑した。200年には、客将として迎えていた劉備が背いて、北の袁紹のもとへ走った。
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200年10月46歳
官渡の戦い
華北の最大の群雄・袁紹の大軍と、官渡でにらみ合った。兵糧が尽きかけたが、袁紹から寝返った許攸の知らせで、烏巣の兵糧庫を自ら襲って焼き払い、袁紹の軍を崩した。
袁紹の死後、子どうしの争いをついて、204年に鄴を落とした。207年には北の烏桓を白狼山で破り、華北をほぼ統一した。208年6月、丞相となった。
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208年12月54歳
赤壁の戦い
荊州の劉表の子を降して、長江を下った。しかし孫権と劉備が手を結び、周瑜の火攻めと疫病で、赤壁で大敗した。天下統一の夢は、ここで遠のいた。
211年、潼関で馬超・韓遂らを破って関中を押さえ、215年には漢中の張魯を降した。213年に魏公、216年に魏王となり、皇帝の一歩手前まで上りつめた。
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219年8月65歳
漢中を失い、関羽を退ける
定軍山で夏侯淵が討たれ、漢中を劉備に奪われた。この退却のとき「鶏肋(けいろく)」と言ったとされる。続いて関羽が樊城を囲むと、孫権と結んで関羽の背後を突かせ、危機を切り抜けた。翌年正月、洛陽で亡くなった。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
本拠の移り変わり
- 1
東郡(東武陽)
191年ごろ〜194年(37〜40歳)東郡太守となり、はじめて自分の地盤を持った。
- 2
鄄城
194年ごろ〜196年(40〜42歳)兗州の本拠。呂布に兗州を奪われかけたとき、荀彧らが守り抜いた城のひとつ。
- 3
許
196年〜204年(42〜50歳)献帝を迎えて都とした。屯田もここから始まった。
- 4
鄴
204年〜219年(50〜65歳)袁氏から奪い、本拠とした。銅雀台を築き、魏公・魏王の都となった。
- 5
洛陽
219年ごろ〜220年(65〜66歳)関羽との戦いのあとに入り、ここで亡くなった。
地図は205年の勢力図に、本拠の位置を重ねたものです。濃い色が曹操の勢力です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
史料にある
「治世の能臣、乱世の奸雄」と評された
若いころ、人物の評価で名高い許劭に言われた言葉。『三国志』の注に引く本では「治世の能臣、乱世の奸雄」、『後漢書』では「清平の奸賊、乱世の英雄」と、言葉が少し違って伝わる。
諸説
「我、人に背くとも、人が我に背くことは許さない」
董卓から逃げる途中、世話になった呂伯奢の家の人々を殺したという話は、『三国志』の注に引く複数の本にある。ただし、殺した事情は本によって違い、この言葉は孫盛の『雑記』にだけ見える。小説『三国志演義』では、さらに悪く脚色された。
諸説
赤壁に攻めてきた曹操軍は80万
曹操は孫権への手紙で「水軍80万」と号したと伝わるが、周瑜は、実際は北から来た兵15〜16万と、降した劉表の兵7〜8万にすぎないと見ていた(『三国志』の注に引く『江表伝』)。
後世の創作
赤壁で、諸葛亮が祈って東南の風を吹かせた
小説『三国志演義』の名場面だが、正史には諸葛亮が風を呼んだという記事はない。火攻めを進言したのは、周瑜の部下の黄蓋だった。
後世の創作
華容道で、関羽が曹操を見逃した
これも『三国志演義』の話。正史では、曹操はぬかるみの華容道を、草を敷いて馬を通しながら退いたとある(『三国志』の注に引く『山陽公載記』)。
諸説
曹操は、ずるがしこい悪役だった
悪役の曹操は、主に明の時代の『三国志演義』で定まったイメージ。正史を書いた陳寿は、曹操を「非常の人、超世の傑」とたたえた。一方で、徐州攻めで多くの住民を殺したことなど、冷酷な面も正史に記されている。
後世の創作
墓を暴かれないよう、72の偽の墓を作った
「七十二疑塚」は後世の伝説。曹操は遺言で、墓に金銀の宝を入れないよう命じていた。2009年、河南省安陽市の西高穴で見つかった大きな墓が、曹操の墓(高陵)と発表された(異論もある)。
数字で見る曹操
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
家臣
主役のバトン
曹操が死んだあと
曹操の勢力は、曹操が死んだ時点で地図の上の39地域。10年後には40地域。勢力の名は「魏王曹操」から「魏」に変わった。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
曹操が出てくる合戦絵巻
略年譜(三国志 勢力図の出来事から)
- 184年2月30歳黄巾の乱
- 184年5月30歳長社の戦い
- 189年9月35歳董卓の専横
- 190年1月36歳反董卓連合軍の挙兵
- 192年12月38歳曹操、青州兵を得る
- 193年9月39歳曹操の徐州侵攻
- 194年5月40歳呂布が兗州を奪う
- 196年8月42歳献帝を許に迎える
- 196年6月42歳屯田制の開始
- 197年1月43歳宛城の戦い
- 198年12月44歳下邳の戦い・呂布の最期
- 200年1月46歳劉備、曹操から離れる
- 200年10月46歳官渡の戦い
- 202年5月48歳袁紹の死
- 204年8月50歳鄴の陥落
- 207年8月53歳白狼山の戦い
- 207年12月53歳三顧の礼
- 208年6月54歳曹操が丞相となる
- 208年9月54歳長坂の戦い
- 208年12月54歳赤壁の戦い
- 210年12月56歳周瑜の死と「荊州貸与」
- 211年9月57歳潼関の戦い
- 213年5月59歳曹操が魏公となる
- 215年7月61歳荊州の分割
- 215年11月61歳曹操、漢中を得る
- 216年5月62歳曹操が魏王となる
- 219年1月65歳定軍山の戦い
- 219年8月65歳樊城の戦い
- 220年1月66歳曹操の死
- 220年10月66歳魏の建国(後漢の滅亡)
参考
- 陳寿『三国志』魏書 武帝紀(裴松之の注を含む)
- 渡邉義浩『三国志 演義から正史、そして史実へ』(中公新書)
- 石井仁『曹操 魏の武帝』(新人物往来社)