曹

三国志 勢力図の人物

曹操そう そう

155年〜220年(数え66歳) / 魏王・丞相 / 曹操・魏

宦官の家に生まれ、皇帝を手もとに迎えて、中国の北半分を治める魏王になった。「乱世の奸雄」と呼ばれた男。

「治世の能臣、乱世の奸雄」と評された。兵法書『孫子』に注をつけ、詩人としても優れた。

曹操の勢力

運命の分かれ目

  1. 190年1月36歳

    反董卓の兵を挙げる

    董卓が洛陽で皇帝を思うままにすると、曹操は都を逃れ、私財を投じて兵を集めた。各地の諸侯が反董卓連合を結んでも様子見を続けるなか、曹操は自ら董卓軍を追って戦い、敗れて矢傷を負った。

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  2. 192年、青州の黄巾軍30万を降して、その精鋭を「青州兵」とした。兗州を地盤にしたが、194年に徐州を攻めている間に、呂布に兗州のほとんどを奪われかけた。

  3. 196年8月42歳

    献帝を許に迎える

    長安から逃れて荒れた洛陽にいた献帝を、自分の本拠の許に迎えた。こののち曹操は、皇帝の名で諸侯に命令を出せるようになった。同じ年、荒れた土地に民を住まわせて耕させる屯田を始め、兵糧の心配をなくした。

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  4. 198年、下邳で呂布を捕らえて処刑した。200年には、客将として迎えていた劉備が背いて、北の袁紹のもとへ走った。

  5. 200年10月46歳

    官渡の戦い

    華北の最大の群雄・袁紹の大軍と、官渡でにらみ合った。兵糧が尽きかけたが、袁紹から寝返った許攸の知らせで、烏巣の兵糧庫を自ら襲って焼き払い、袁紹の軍を崩した。

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  6. 袁紹の死後、子どうしの争いをついて、204年に鄴を落とした。207年には北の烏桓を白狼山で破り、華北をほぼ統一した。208年6月、丞相となった。

  7. 208年12月54歳

    赤壁の戦い

    荊州の劉表の子を降して、長江を下った。しかし孫権と劉備が手を結び、周瑜の火攻めと疫病で、赤壁で大敗した。天下統一の夢は、ここで遠のいた。

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  8. 211年、潼関で馬超・韓遂らを破って関中を押さえ、215年には漢中の張魯を降した。213年に魏公、216年に魏王となり、皇帝の一歩手前まで上りつめた。

  9. 219年8月65歳

    漢中を失い、関羽を退ける

    定軍山で夏侯淵が討たれ、漢中を劉備に奪われた。この退却のとき「鶏肋(けいろく)」と言ったとされる。続いて関羽が樊城を囲むと、孫権と結んで関羽の背後を突かせ、危機を切り抜けた。翌年正月、洛陽で亡くなった。

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年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。

本拠の移り変わり

  1. 1

    東郡(東武陽)

    191年ごろ〜194年(37〜40歳)

    東郡太守となり、はじめて自分の地盤を持った。

  2. 2

    鄄城

    194年ごろ〜196年(40〜42歳)

    兗州の本拠。呂布に兗州を奪われかけたとき、荀彧らが守り抜いた城のひとつ。

  3. 3

    許

    196年〜204年(42〜50歳)

    献帝を迎えて都とした。屯田もここから始まった。

  4. 4

    鄴

    204年〜219年(50〜65歳)

    袁氏から奪い、本拠とした。銅雀台を築き、魏公・魏王の都となった。

  5. 5

    洛陽

    219年ごろ〜220年(65〜66歳)

    関羽との戦いのあとに入り、ここで亡くなった。

地図は205年の勢力図に、本拠の位置を重ねたものです。濃い色が曹操の勢力です。

通説と実像

よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。

史料にある

「治世の能臣、乱世の奸雄」と評された

若いころ、人物の評価で名高い許劭に言われた言葉。『三国志』の注に引く本では「治世の能臣、乱世の奸雄」、『後漢書』では「清平の奸賊、乱世の英雄」と、言葉が少し違って伝わる。

諸説

「我、人に背くとも、人が我に背くことは許さない」

董卓から逃げる途中、世話になった呂伯奢の家の人々を殺したという話は、『三国志』の注に引く複数の本にある。ただし、殺した事情は本によって違い、この言葉は孫盛の『雑記』にだけ見える。小説『三国志演義』では、さらに悪く脚色された。

諸説

赤壁に攻めてきた曹操軍は80万

曹操は孫権への手紙で「水軍80万」と号したと伝わるが、周瑜は、実際は北から来た兵15〜16万と、降した劉表の兵7〜8万にすぎないと見ていた(『三国志』の注に引く『江表伝』)。

後世の創作

赤壁で、諸葛亮が祈って東南の風を吹かせた

小説『三国志演義』の名場面だが、正史には諸葛亮が風を呼んだという記事はない。火攻めを進言したのは、周瑜の部下の黄蓋だった。

後世の創作

華容道で、関羽が曹操を見逃した

これも『三国志演義』の話。正史では、曹操はぬかるみの華容道を、草を敷いて馬を通しながら退いたとある(『三国志』の注に引く『山陽公載記』)。

諸説

曹操は、ずるがしこい悪役だった

悪役の曹操は、主に明の時代の『三国志演義』で定まったイメージ。正史を書いた陳寿は、曹操を「非常の人、超世の傑」とたたえた。一方で、徐州攻めで多くの住民を殺したことなど、冷酷な面も正史に記されている。

後世の創作

墓を暴かれないよう、72の偽の墓を作った

「七十二疑塚」は後世の伝説。曹操は遺言で、墓に金銀の宝を入れないよう命じていた。2009年、河南省安陽市の西高穴で見つかった大きな墓が、曹操の墓(高陵)と発表された(異論もある)。

数字で見る曹操

勢力が最も広かった年217年40地域・約144万km²(63歳)
そのときの広さ27%この地図の範囲(中国とその周辺)のうち。その年の勢力の中で1位
世に出てから36年184年、黄巾の乱の討伐に騎都尉として加わる
地図に記された戦い17回三国志 勢力図の出来事のうち、曹操の名前が出てくる戦い
本拠を移した回数4回東郡(東武陽) → 鄄城 → 許 → 鄴 → 洛陽

広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。

つながり

主役のバトン

← 前の主役袁紹曹操より前に、華北の大半を押さえた最大の群雄
曹操155年〜220年(数え66歳)
次の主役 →曹丕父の死の年に、後漢から位をゆずらせて魏を建てた

曹操が死んだあと

220年(死んだ時点)
230年(10年後)
39死
411年後
412年後
413年後
414年後
415年後
416年後
417年後
418年後
419年後
4010年後

曹操の勢力は、曹操が死んだ時点で地図の上の39地域。10年後には40地域。勢力の名は「魏王曹操」から「魏」に変わった。

死んだ年の勢力図を開く

地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。

同じ時代、世界では

ガレノスローマ・129年〜216年・曹操より26歳年上ローマ帝国の医学者。その医学は千年以上受け継がれた。生没年は諸説ある。
セプティミウス・セウェルスローマ・145年〜211年・曹操より10歳年上アフリカ出身のローマ皇帝。内乱を勝ち抜いて帝位についた。
コンモドゥスローマ・161年〜192年・曹操より6歳年下マルクス・アウレリウスの子。剣闘士として戦った暴君で、暗殺された。
カラカラローマ・188年〜217年・曹操より33歳年下帝国内の自由人にローマ市民権を与えたローマ皇帝。大浴場を築いた。
マルクス・アウレリウスローマ・121年〜180年・曹操より34歳年上「哲人皇帝」と呼ばれたローマ皇帝。『自省録』を残した。
アルダシール1世西アジア・生年不詳〜242年パルティアを倒し、ササン朝ペルシアを建てた。

曹操が出てくる合戦絵巻

略年譜(三国志 勢力図の出来事から)

参考