運命の分かれ目
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189年9月
主君の丁原を殺し、董卓に仕える
并州の武将で、弓と馬にすぐれ「飛将」と呼ばれた。仕えていた丁原を、董卓にそそのかされて殺し、董卓の養子のような扱いを受けて、そばを守った。
袁術・袁紹のもとを転々としたが、どこにも長くいられなかった。
徐州の劉備を頼り、やがて劉備の留守に徐州を奪った。
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198年12月
下邳で捕らえられる
曹操と劉備に下邳城を囲まれ、水攻めにあった。部下に裏切られて捕らえられ、曹操に「私を使えば天下は思いのまま」と命乞いした。劉備が「丁原と董卓のことをお忘れか」と言い、曹操は呂布を絞め殺させた。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
史料にある
名馬「赤兎」に乗っていた
正史の呂布伝に、呂布の乗る良馬を「赤兎」といったとある。
史料にある
「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と言われた
正史の注に引く『曹瞞伝』に見える、当時の人々の言葉。
後世の創作
美女の貂蝉をめぐって董卓を殺した
正史には、呂布が董卓の侍女と通じていたとあるだけで、名前もない。貂蝉は演義などで作られた人物。
史料にある
陣門の戟を射当てて、戦いを止めた
正史に、150歩離れた戟の小枝を射当て、紀霊と劉備の兵を引かせた話がある。
数字で見る呂布
勢力が最も広かった年196年2地域・約6.5万km²
そのときの広さ1%この地図の範囲(中国とその周辺)のうち。その年の勢力の中で16位
地図に記された戦い2回三国志 勢力図の出来事のうち、呂布の名前が出てくる戦い
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
主役のバトン
呂布生年不詳〜198年
呂布が死んだあと
呂布の勢力は、呂布が死んだ時点で地図の上の2地域。1年後には、呂布の色の地域はなくなった。死んだ時点の呂布の地域は、1年後には曹操が1地域、劉備が1地域を支配していた。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
ガレノスローマ・129年〜216年・呂布より129歳年下ローマ帝国の医学者。その医学は千年以上受け継がれた。生没年は諸説ある。
マルクス・アウレリウスローマ・121年〜180年・呂布より121歳年下「哲人皇帝」と呼ばれたローマ皇帝。『自省録』を残した。
セプティミウス・セウェルスローマ・145年〜211年・呂布より145歳年下アフリカ出身のローマ皇帝。内乱を勝ち抜いて帝位についた。
コンモドゥスローマ・161年〜192年・呂布より161歳年下マルクス・アウレリウスの子。剣闘士として戦った暴君で、暗殺された。
イエス西アジア・前4年〜30年・呂布より4歳年上キリスト教の祖。生没年は諸説ある。
カラカラローマ・188年〜217年・呂布より188歳年下帝国内の自由人にローマ市民権を与えたローマ皇帝。大浴場を築いた。
略年譜(三国志 勢力図の出来事から)
参考
- 陳寿『三国志』魏書 呂布伝(裴松之の注を含む)