呂

三国志 勢力図の人物

呂布りょ ふ

生年不詳〜198年 / 飛将 / 呂布

天下に並ぶ者のない武勇を持ちながら、主君を2度殺し、居場所を転々とした。最後は曹操に捕らえられた。

無双の武勇を誇ったが、主君を次々と裏切り、最後は曹操に処刑された。

呂布の勢力

運命の分かれ目

  1. 189年9月

    主君の丁原を殺し、董卓に仕える

    并州の武将で、弓と馬にすぐれ「飛将」と呼ばれた。仕えていた丁原を、董卓にそそのかされて殺し、董卓の養子のような扱いを受けて、そばを守った。

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  2. 192年4月

    董卓を殺す

    董卓の侍女と通じていたことを知られるのを恐れていたところ、王允に誘われて董卓を殺した。しかし董卓の旧臣たちが長安を攻め、呂布は都を逃れた。

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  3. 袁術・袁紹のもとを転々としたが、どこにも長くいられなかった。

  4. 194年5月

    曹操の留守に兗州を奪う

    曹操が徐州を攻めているすきに、陳宮らに迎えられて兗州のほとんどを奪った。曹操は帰ってきて呂布と激しく戦い、翌年、呂布を兗州から追い出した。

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  5. 徐州の劉備を頼り、やがて劉備の留守に徐州を奪った。

  6. 196年6月

    戟を射て、戦いを止める

    袁術の将の紀霊が劉備を攻めたとき、呂布は両者を呼んで、陣門に立てた戟の小枝を矢で射当て、両軍を引き分けさせた。

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  7. 198年12月

    下邳で捕らえられる

    曹操と劉備に下邳城を囲まれ、水攻めにあった。部下に裏切られて捕らえられ、曹操に「私を使えば天下は思いのまま」と命乞いした。劉備が「丁原と董卓のことをお忘れか」と言い、曹操は呂布を絞め殺させた。

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年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。

通説と実像

よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。

史料にある

名馬「赤兎」に乗っていた

正史の呂布伝に、呂布の乗る良馬を「赤兎」といったとある。

史料にある

「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と言われた

正史の注に引く『曹瞞伝』に見える、当時の人々の言葉。

後世の創作

美女の貂蝉をめぐって董卓を殺した

正史には、呂布が董卓の侍女と通じていたとあるだけで、名前もない。貂蝉は演義などで作られた人物。

史料にある

陣門の戟を射当てて、戦いを止めた

正史に、150歩離れた戟の小枝を射当て、紀霊と劉備の兵を引かせた話がある。

数字で見る呂布

勢力が最も広かった年196年2地域・約6.5万km²
そのときの広さ1%この地図の範囲(中国とその周辺)のうち。その年の勢力の中で16位
地図に記された戦い2回三国志 勢力図の出来事のうち、呂布の名前が出てくる戦い

広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。

つながり

主役のバトン

呂布生年不詳〜198年

呂布が死んだあと

198年(死んだ時点)
199年(1年後)
2死
01年後
02年後
03年後
04年後
05年後
06年後
07年後
08年後
09年後
010年後

呂布の勢力は、呂布が死んだ時点で地図の上の2地域。1年後には、呂布の色の地域はなくなった。死んだ時点の呂布の地域は、1年後には曹操が1地域、劉備が1地域を支配していた。

死んだ年の勢力図を開く

地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。

同じ時代、世界では

ガレノスローマ・129年〜216年・呂布より129歳年下ローマ帝国の医学者。その医学は千年以上受け継がれた。生没年は諸説ある。
マルクス・アウレリウスローマ・121年〜180年・呂布より121歳年下「哲人皇帝」と呼ばれたローマ皇帝。『自省録』を残した。
セプティミウス・セウェルスローマ・145年〜211年・呂布より145歳年下アフリカ出身のローマ皇帝。内乱を勝ち抜いて帝位についた。
コンモドゥスローマ・161年〜192年・呂布より161歳年下マルクス・アウレリウスの子。剣闘士として戦った暴君で、暗殺された。
イエス西アジア・前4年〜30年・呂布より4歳年上キリスト教の祖。生没年は諸説ある。
カラカラローマ・188年〜217年・呂布より188歳年下帝国内の自由人にローマ市民権を与えたローマ皇帝。大浴場を築いた。
略年譜(三国志 勢力図の出来事から)

参考