1219年7月
関羽の北上
劉備が漢中王となると、荊州を守る関羽は北へ兵を進め、曹仁の守る樊城を包囲し、漢水の南の襄陽も囲んだ。曹操は于禁と龐徳に七軍3万を与えて救援に送った。
合戦絵巻 ─ 三国志 勢力図
219年7月
219年(建安24年)の秋、荊州の樊城(いまの湖北省襄陽市)で、蜀の関羽が曹操の軍を攻め、長雨で氾濫した漢水を利用して于禁の七軍3万を降伏させた。関羽の名は中原を震わせ、曹操は都を移すことまで考えたという。しかしその背後で呉の呂蒙が荊州を奪い、関羽は帰る場所を失って、この年の暮れに命を落とした。
上の観戦プレイヤーでは、関羽軍約3万と曹操軍約3万、あわせて約6万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
208年の赤壁の戦いのあと、劉備は荊州の南部を手に入れ、さらに益州(いまの四川)を奪った。219年には漢中で曹操の軍を退け、漢中王となった。劉備の勢力は、この年に最も大きくなった。
荊州を任されていたのは、劉備の旧友で、義兄弟の契りを結んだと語られる関羽である。荊州は、魏と呉の両方と境を接する要の土地だった。呉の孫権とは同盟を結んでいたが、荊州の帰属をめぐって両国の関係は悪化していた。
219年7月、関羽は北へ兵を進め、曹操の一族の曹仁が守る樊城を囲んだ。曹操は于禁と龐徳に七軍3万を与えて救援に向かわせた。
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1219年7月
劉備が漢中王となると、荊州を守る関羽は北へ兵を進め、曹仁の守る樊城を包囲し、漢水の南の襄陽も囲んだ。曹操は于禁と龐徳に七軍3万を与えて救援に送った。
2219年8月
于禁の七軍は樊城の北の低い平地に陣を敷いた。龐徳はもとは馬超の部将で、兄が蜀にいたため疑われたが、棺を担いで出陣し、関羽の額に矢を当てるほどの奮戦ぶりを見せた。
3219年8月 長雨
十日以上降り続いた秋の長雨で漢水があふれ、平地は数丈(数メートル)の水に沈んだ。関羽は用意していた大船で攻め寄せ、水に取り残された于禁は降伏した。
4219年8月
龐徳は堤の上で弓を引いて戦い続け、小舟で逃れようとして捕らえられた。関羽に降伏を勧められても「魏の鬼となっても賊の将にはならない」と拒み、斬られた。関羽の威名は中原を震わせ、曹操は都を許から移すことまで考えたという。
5219年9月〜10月
樊城は水に浸かって城壁が崩れかけ、曹仁は兵とともに白馬を沈めて死守を誓った。曹操が送った徐晃は、関羽の包囲陣を正面から破った。同じころ、孫権は曹操に「関羽を討つ」と密かに伝えていた。
6219年10月〜
関羽は包囲を解いて南へ退いた。そのころ本拠の江陵は、商人に化けた呂蒙の兵に奪われていた。帰る場所を失った関羽は麦城に逃れ、12月に捕らえられて斬られた。
7結果
関羽は一時は曹操を恐れさせるほどの勝利を得たが、背後の呉への備えを欠いたため、荊州を失い、自らも命を落とした。蜀は天下三分の計の柱だった荊州を失い、劉備は関羽の仇討ちのために呉と戦うことになる(夷陵の戦い)。
于禁の七軍は、樊城の北の低い平地に陣を敷いていた。十日以上続いた秋の長雨で漢水があふれると、平地は数メートルの水に沈んだ。関羽は前もって用意していた大船で攻め寄せ、水に取り残された七軍を降伏させた。
関羽は北の曹操との戦いに兵を集中し、背後の呉への備えを薄くしていた。呉の呂蒙は病と称して油断を誘い、兵を商人に化けさせて川を上り、関羽の本拠の江陵を奪った。
曹操が送った徐晃は、関羽の包囲陣を正面から破った。樊城が持ちこたえたことで、関羽は北で勝ちきることができなかった。
劉備の最も古くからの将。この戦いで名を天下に轟かせたが、荊州を失って麦城に逃れ、呉に捕らえられて斬られた。のちに武神・財神として、中国で広く祀られるようになる。
曹操の従弟。水に浸かって崩れかけた樊城で、白馬を沈めて兵とともに死守を誓い、ついに城を守りぬいた。
曹操に長く仕えた名将だったが、水攻めにあって関羽に降伏した。のちに魏へ戻されたが、降伏を恥じて病で亡くなったと伝わる。
もとは馬超の部将。兄が蜀にいたため疑われ、棺を担いで出陣したという。最後まで戦って捕らえられ、降伏を拒んで斬られた。
呉の将。「呉下の阿蒙にあらず」の言葉で知られる。関羽の留守をついて荊州を奪ったが、まもなく病で亡くなった。
本拠を失った関羽は麦城に逃れ、12月、呉の兵に捕らえられて、子の関平とともに斬られた。蜀は、天下三分の計の柱だった荊州を失った。
翌220年、曹操が亡くなり、子の曹丕が漢の皇帝から位を譲られて魏を建てた。221年には劉備も皇帝となり、関羽の仇を討つため、呉へ攻めこむ(夷陵の戦い)。
正史の『三国志』は、関羽が勇猛である一方、自分の才能をたのんで人を見下すところがあったと書く。荊州を守っていた麋芳や士仁が呉に寝返ったのも、関羽との不仲が一因とされる。
小説の『三国志演義』では、関羽が川をせき止めて水攻めにしたように描かれる。正史では、長雨で漢水があふれたところを、関羽が船で攻めたとされ、自然の氾濫を生かしたと見るのがふつうである。
| 208年 | 赤壁の戦い |
|---|---|
| 214年 | 劉備が益州を手に入れる |
| 219年5月 | 劉備が漢中を手に入れ、漢中王となる |
| 219年8月 | 樊城の戦い。于禁が降伏し、龐徳が斬られる |
| 219年閏10月 | 呂蒙が江陵を奪う |
| 219年12月 | 関羽が捕らえられ、斬られる |
| 222年 | 夷陵の戦い |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 関羽総大将 | 3万余(諸説) | 逃走 |
| 関平 | 逃走 | |
| 関羽の水軍 | 勝利 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 樊城(曹仁)総大将 | 数千 | 勝利 |
| 襄陽(呂常) | 包囲 | |
| 于禁(七軍) | 3万 | 降伏 |
| 龐徳 | 討死・壊滅 | |
| 徐晃(救援) | 勝利 |
決め手
十日以上降り続いた秋の長雨で漢水があふれ、平地は数丈(数メートル)の水に沈んだ。関羽は用意していた大船で攻め寄せ、水に取り残された于禁は降伏した。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「三国志 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:陳寿『三国志』、渡邉義浩『三国志 ─ 演義から正史、そして史実へ』(中公新書)