合戦絵巻 ─ 戦国勢力図

小牧・長久手の戦い

1584年4月9日(天正12年) / 尾張国 小牧・長久手

3月〜4月

小牧山のにらみ合い

1粒=約100人

1584年(天正12年)、尾張国の小牧・長久手(いまの愛知県小牧市・長久手市)で、羽柴秀吉と、徳川家康・織田信雄の連合軍が戦った。4月9日の長久手の戦いでは、家康が秀吉方の別働隊を破り、池田恒興・森長可を討ち取った。秀吉と家康が直接戦った、ただ一度の戦いである。

上の観戦プレイヤーでは、徳川・織田信雄軍約2.1万と羽柴軍約8万、あわせて約10万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの8つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

徳川・織田信雄軍
約2.1万
羽柴軍
約8万
いつ
3月〜4月 → その後

なぜ戦ったのか

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を倒した羽柴秀吉は、大坂城を築き、信長の後継者としての立場を固めつつあった。信長の次男・織田信雄は、はじめ秀吉と手を組んでいたが、しだいに秀吉に主導権を奪われていく。

1584年3月、信雄は秀吉に通じたとして家老3人を殺し、秀吉との対立をはっきりさせた。信雄が頼ったのは、信長の同盟者だった徳川家康である。家康は信雄を助けて兵を挙げ、四国の長宗我部元親、紀伊の雑賀衆・根来衆などとも手を結んで、秀吉を包囲しようとした。

秀吉方の池田恒興が犬山城を奪い、森長可が羽黒で徳川勢に敗れたあと、家康は小牧山を押さえて砦と土塁で固めた。10万ともいわれる大軍を率いて出てきた秀吉も、小牧山の北の楽田に陣を構え、両軍は砦を築き合ってにらみ合った。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

13月〜4月

小牧山のにらみ合い

信長の次男・織田信雄は、力を強める羽柴秀吉と手を切り、徳川家康と結んだ。家康はいち早く小牧山を押さえて砦や土塁で固め、楽田に陣を構えた秀吉の大軍とにらみ合った。どちらも先に手を出せば不利になる、我慢比べだった。

24月6日〜8日

三河中入り

池田恒興の進言で、秀吉は別働隊を出すことにした。家康が小牧山にいるあいだに、手薄な本国・三河の岡崎を突こうというのである。池田恒興・森長可・堀秀政、総大将の羽柴秀次ら2万ほどが、ひそかに南東へ向かった。

34月8日 深夜

家康の追跡

動きをつかんだ家康は、小牧山を酒井忠次に任せ、自ら1万ほどを率いて深夜に出陣した。別働隊に気づかれないよう道を外れて小幡城に入り、そこからさらに後を追った。

44月9日 午前4時頃

岩崎城と白山林

池田恒興は、行く手をはばんだ徳川方の岩崎城を攻め落とした。その頃、後ろの白山林で休んでいた羽柴秀次の隊に、追いついた水野忠重・榊原康政らが襲いかかった。不意を突かれた秀次の隊は総崩れになり、秀次は馬を失って逃げ延びた。

5午前6時頃

檜ヶ根の反撃

前を進んでいた堀秀政は、銃声を聞いて引き返し、檜ヶ根で待ち伏せた。勝ちに乗って追ってきた徳川の先手を鉄砲で打ち崩したが、家康の本隊が近づいたのを知ると、深追いせずに戦場を離れた。

6午前10時頃

長久手の決戦

家康は色金山から御旗山へ陣を進め、引き返してきた池田恒興・森長可の隊と長久手で激突した。戦いは2時間ほど続いたが、井伊直政の赤備えなど徳川勢が押しきった。森長可は眉間を撃ち抜かれて討死し、池田恒興・元助の親子も討ち取られた。

7午後

秀吉、間に合わず

別働隊の苦戦を知った秀吉は、2万ほどを率いて楽田を飛び出したが、家康はすでに小幡城へ引き揚げていた。夜のうちに小牧山へ戻った家康を、秀吉はついに捕まえられなかった。

8その後

戦いに勝って、天下は譲る

戦場では家康が勝ったが、秀吉は伊勢・伊賀で信雄の領地を攻め、11月に信雄と単独で和睦した。戦う名分を失った家康も兵を引き、次男の於義丸(結城秀康)を秀吉の養子として差し出した。1586年、家康は大坂城で秀吉に臣従する。

勝敗を分けたもの

別働隊の動きを読んだ

三河の岡崎を突く別働隊の動きを、家康は地元の農民などからの知らせで早くつかんだといわれる。家康は小牧山の守りを残しつつ、自ら本隊を率いてひそかに後を追った。

分かれた敵を一つずつ

2万の別働隊は、秀次・堀秀政・森長可・池田恒興の4つの隊に分かれて縦に長く伸びていた。家康は最後尾の秀次の隊をまず崩し、引き返してきた池田・森の隊とは、自分に有利な場所で戦った。

秀吉の速さを上回る退き

別働隊の敗北を知った秀吉はすぐに大軍で駆けつけたが、家康は勝つとすぐに小幡城へ入り、夜のうちに小牧山へ戻った。勝ったあと深追いせず、秀吉の大軍との決戦を避けたことが、勝ちを確かなものにした。

主な武将とその後

徳川家康徳川・織田信雄軍

43歳。秀吉を相手に戦場で勝ち、その実力を天下に示した。のちに秀吉に臣従したが、豊臣政権の中で別格の大大名として扱われることになる。

羽柴秀吉羽柴軍

48歳。戦場では家康に敗れたが、信雄との和睦で戦いを終わらせた。翌1585年に関白となり、豊臣の姓を受ける。

織田信雄徳川・織田信雄軍

信長の次男。家康を頼って秀吉と戦ったが、伊勢の領地を攻められ、家康に相談しないまま秀吉と和睦した。

池田恒興羽柴軍

信長の乳兄弟で、山崎の戦いでも活躍した宿老。三河中入りを進言したとされるが、長久手で長男の元助とともに討死した。49歳だった。

森長可羽柴軍

池田恒興の娘婿で、「鬼武蔵」と呼ばれた猛将。羽黒での敗戦の雪辱を期して中入りに加わったが、長久手で眉間を撃ち抜かれて討死した。27歳だった。

井伊直政徳川・織田信雄軍

家康の家臣。武田の旧臣を配下に加え、鎧を赤でそろえた「赤備え」を率いた。長久手での活躍で「井伊の赤鬼」と恐れられたと伝わる。

合戦のあと

長久手で敗れた秀吉は、戦い方を変えた。家康との決戦を避け、信雄の領地である伊勢・伊賀を攻めたのである。追いつめられた信雄は、11月、家康に相談しないまま秀吉と和睦した。信雄を助けるために戦っていた家康は、戦う理由を失い、兵を引いた。

家康は次男の於義丸(のちの結城秀康)を秀吉の養子として大坂へ送った。秀吉は妹の朝日姫を家康に嫁がせ、さらに母の大政所を人質として送って、家康に上洛を求めた。1586年10月、家康は大坂城で秀吉に臣従を誓った。

諸説と論点

どちらが勝ったのか

長久手の戦いでは家康が大勝したが、小牧・長久手の戦い全体では、秀吉が信雄を和睦に引き込み、家康も最後は臣従した。戦場では家康、政治では秀吉の勝ちといわれることが多い。

中入りは誰の発案か

三河を突く中入りは、池田恒興が秀吉に強く願い出て実現したと、多くの軍記は伝えている。一方で、秀吉自身が計画し、池田を先手として送り出したとする見方もある。

家康が「天下を取った」戦い

江戸時代になると、この戦いは家康が秀吉に勝った戦いとして大きく語られた。家康の実力を秀吉に認めさせ、のちの天下取りにつながった戦いとして評価されることが多い。

関連年表

1583年4月賤ヶ岳の戦い
1584年3月織田信雄が家老3人を殺し、秀吉と対立
1584年3月17日羽黒の戦い。森長可が酒井忠次らに敗れる
1584年3月家康が小牧山に陣を構える
1584年4月9日長久手の戦い。池田恒興・森長可が討死
1584年11月秀吉と信雄が和睦
1585年7月秀吉が関白となる
1586年10月家康が大坂城で秀吉に臣従

両軍の陣容

徳川・織田信雄軍約2.1万

部隊兵力その後
徳川家康総大将約6,000勝利
織田信雄約3,000
井伊直政(赤備え)約3,000
水野忠重・榊原康政・大須賀康高約4,500
酒井忠次(小牧山の守り)約5,000

羽柴軍約8万

部隊兵力その後
羽柴秀吉総大将約60,000
池田恒興・元助約6,000討死・壊滅
森長可約3,000討死・壊滅
堀秀政約3,000
羽柴秀次約8,000敗走

決め手

長久手の決戦

家康は色金山から御旗山へ陣を進め、引き返してきた池田恒興・森長可の隊と長久手で激突した。戦いは2時間ほど続いたが、井伊直政の赤備えなど徳川勢が押しきった。森長可は眉間を撃ち抜かれて討死し、池田恒興・元助の親子も討ち取られた。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「戦国勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:松平家忠『家忠日記』、小瀬甫庵『太閤記』