合戦絵巻 ─ 戦国勢力図

大坂冬の陣真田丸の攻防

1614年12月4日(慶長19年) / 摂津国 大坂城

11月

20万の包囲

1粒=約100人

1614年(慶長19年)冬、徳川家康は20万ともいわれる大軍で大坂城を囲んだ。12月4日、城の南に真田信繁(幸村)が築いた出丸「真田丸」に攻め寄せた徳川方は、鉄砲を浴びて大きな損害を出した。力攻めをあきらめた家康は、大砲と和議で城の守りを崩す道を選び、翌年の夏の陣へとつながっていく。

上の観戦プレイヤーでは、豊臣方約10万と徳川方約8万、あわせて約18万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

豊臣方
約10万
徳川方
約8万
いつ
11月 → 12月16日〜20日

なぜ戦ったのか

関ヶ原の戦いのあと、徳川家康は江戸に幕府を開き、1605年には将軍職を息子の秀忠に譲って、徳川が天下を治めることをはっきりさせた。それでも大坂城の豊臣秀頼は、秀吉の子として、なお多くの大名や民から特別な目で見られていた。

1614年、秀頼が再建した京都・方広寺の大仏殿の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が問題とされた。家康の名を二つに分け、豊臣の繁栄を願う呪いだというのである。交渉は決裂し、豊臣家は戦いの準備を始めた。

豊臣方に味方する大名はいなかったが、関ヶ原で主家を失った浪人たちが続々と大坂城に入った。真田信繁・後藤又兵衛・長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登らである。その数は10万ほどにのぼったという。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

111月

20万の包囲

方広寺の鐘の銘を口実に、家康は豊臣家との戦いに踏みきった。全国の大名を動員した20万ともいわれる徳川方が大坂城を囲み、城の外の砦を次々に落とした。城には、関ヶ原で主家を失った浪人たちが10万ほど集まっていた。

211月〜12月初め

出丸「真田丸」

大坂城は北と東西を川や湿地に守られていたが、南だけは平地が続いていた。真田信繁は、その南の惣構の外に、空堀と柵で囲んだ半月形の出丸を築いた。これが「真田丸」である。前田利常の軍が、その正面に陣を取った。

312月4日 未明

篠山の挑発

真田丸の前の篠山から、真田の兵が前田の陣に鉄砲を撃ちかけ、作事の邪魔をしていた。前田勢が夜明け前に篠山を攻めると、山はもぬけの殻だった。真田の兵は「そこで何をしている、攻めてこい」とはやしたてた。

412月4日 朝

空堀に殺到

挑発に乗った前田勢は、そのまま真田丸の空堀に押し寄せた。城内で火薬の暴発があったのを内応の合図と思いこんだ井伊直孝・松平忠直の兵も、八丁目口・谷町口へ攻めかかった。どの隊も竹束や盾の用意がないままだった。

5午前

真田丸の鉄砲

空堀に下りて身動きのとれない徳川勢に、真田丸と城の塀の上から鉄砲が雨のように撃ちこまれた。真田丸からは兵が打って出て、退く敵をさらに追い討った。徳川方の死傷者は数千にのぼったといわれる。

6午後

徳川方の退却

大損害を出した徳川勢は、ようやく引き揚げた。家康は無理な城攻めを禁じ、力攻めでは落とせないことを思い知らされた。真田信繁の名は、この戦いで天下に知れわたる。

712月16日〜20日

大砲と和議

家康は作戦を変え、イギリスやオランダから買い入れた大砲で、昼も夜も城へ砲弾を撃ちこませた。天守近くに落ちた一発に淀殿がおびえ、12月20日に和議が結ばれた。その条件で惣構の堀が埋められ、真田丸も壊された。半年後の夏の陣で、大坂城は裸のまま戦うことになる。

勝敗を分けたもの

大坂城の弱点を補う

大坂城は北と東西を川や湿地に守られた堅い城だったが、南だけは平地が続き、攻めやすかった。信繁はその南に出丸を築き、敵の攻撃を自分の持ち場に引きつけた。

挑発と引き込み

真田の兵は前の篠山から前田勢に鉄砲を撃ちかけ、さかんに挑発した。怒った前田勢が準備のないまま攻め寄せると、空堀に下りたところを真田丸と城壁の両方から撃たれた。

力攻めから心理戦へ

真田丸での失敗のあと、家康は無理な城攻めをやめた。昼夜を問わず大砲を撃ちこみ、城内の人々の心を揺さぶったうえで、和議に持ち込んだ。戦場で負けても、戦いの目的は果たしたのである。

主な武将とその後

真田信繁(幸村)豊臣方

真田昌幸の次男。関ヶ原で西軍についたため、父とともに紀伊の九度山に流されていた。大坂城に入って真田丸を築き、その名を天下に知られるようになる。

前田利常徳川方

加賀の前田利家の四男で、加賀藩の2代目。真田丸の正面に陣取ったが、挑発に乗って攻めかかり、大きな損害を出した。

井伊直孝徳川方

井伊直政の次男。八丁目口へ攻めかかったが、城からの鉄砲で多くの兵を失った。夏の陣では木村重成を破っている。

豊臣秀頼豊臣方

豊臣秀吉の子。22歳。大坂城の主として籠城したが、自ら戦場に出ることはなかった。

徳川家康徳川方

73歳。茶臼山に本陣を置いて大坂城を囲んだ。真田丸での失敗のあと、大砲による砲撃と和議の交渉を進めた。

合戦のあと

12月半ば、家康はイギリスやオランダから買い入れた大砲で城を撃たせた。砲弾が天守近くに落ちて侍女が死ぬと、淀殿は和議に傾き、12月20日ごろ和議が結ばれた。豊臣方は、秀頼の身の安全と領地を守るかわりに、城の惣構の堀を埋めることを受け入れた。

堀の埋め立ては徳川方の手で急いで進められ、真田丸も取り壊された。翌1615年春、大坂城に浪人が残っていることなどを理由に、家康は再び兵を挙げる(夏の陣)。堀を失った大坂城は、もう籠城できなかった。

諸説と論点

真田丸はどんな形だったのか

真田丸は、城の南に半円の形で張り出した出丸として描かれることが多い。近年は、古い絵図の研究などから、城と堀で切り離された、より独立性の高い四角い砦だったとする説も出されている。

堀の埋め立ては約束違反か

和議では外側の惣構だけを埋めるはずだったのに、徳川方が勝手に二の丸・三の丸の堀まで埋めてしまった――と長く語られてきた。近年は、二の丸などの堀も豊臣方が埋める約束だったが、その作業が遅いとして徳川方が手を出した、とする見方も有力である。

徳川方の損害

真田丸の戦いでの徳川方の死傷者は、数千とも1万を超えたともいわれるが、確かな数はわからない。前田家などの記録にも大きな損害が書き残されている。

関連年表

1603年2月家康が征夷大将軍となる
1605年4月秀忠が2代将軍となる
1614年7月〜8月方広寺の鐘の銘が問題となる
1614年10月浪人が大坂城に集まる。家康が出陣
1614年11月木津川口・今福・鴫野・博労淵の戦い
1614年12月4日真田丸の戦い
1614年12月20日ごろ和議が成立。大坂城の堀が埋められる
1615年5月大坂夏の陣。豊臣家が滅ぶ

両軍の陣容

豊臣方約10万

部隊兵力その後
豊臣秀頼(大坂城)総大将約90,000
真田信繁(幸村)約5,000
木村重成・長宗我部盛親ら約5,000

徳川方約8万

部隊兵力その後
徳川家康総大将約30,000
徳川秀忠約20,000
前田利常約12,000敗走
松平忠直(越前勢)約10,000敗走
井伊直孝約4,000敗走
藤堂高虎約4,000

決め手

真田丸の鉄砲

空堀に下りて身動きのとれない徳川勢に、真田丸と城の塀の上から鉄砲が雨のように撃ちこまれた。真田丸からは兵が打って出て、退く敵をさらに追い討った。徳川方の死傷者は数千にのぼったといわれる。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「戦国勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館)、千田嘉博『真田丸の謎』(NHK出版新書)