18月下旬
にらみ合い
上杉謙信は1万3千ほどの兵で信濃へ入り、武田方の海津城を見下ろす妻女山に陣を取った。武田信玄も2万の兵で駆けつけ、海津城に入った。両軍は千曲川をはさんで、半月あまりにらみ合った。
合戦絵巻 ─ 戦国勢力図
8月下旬
1561年(永禄4年)9月10日、信濃国の川中島・八幡原(いまの長野市南部)で、上杉謙信と武田信玄の軍がぶつかった。12年にわたって5度くり返された川中島の戦いのうち、両軍が正面から激突したのはこの第四次だけである。武田信繁・山本勘助らが討死し、両軍の死者は数千にのぼる激戦となったが、勝ち負けははっきりしないまま終わった。
上の観戦プレイヤーでは、上杉軍約1.3万と武田軍約2万、あわせて約3.3万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの8つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
甲斐の武田信玄は、1550年代に入ると北信濃へ兵を進め、村上義清・高梨政頼らの国衆を追い出していった。領地を失った彼らが頼ったのが、越後の長尾景虎、のちの上杉謙信である。北信濃を武田に取られれば、越後の喉元に敵が迫ることになる。
1553年の第一次から、謙信と信玄は千曲川と犀川が合わさる川中島の平野でたびたび対陣したが、大きな戦いにはならなかった。そのあいだに信玄は、川中島の南に海津城(のちの松代城)を築いて、北信濃の支配を固めた。
1561年、関東管領の名跡を継いで上杉政虎と名乗った謙信は、小田原攻めから戻ると、8月に1万3千ほどを率いて川中島へ出陣した。謙信が陣を取ったのは、海津城をすぐ下に見下ろす妻女山。敵の城の目の前に陣を張る、大胆な布陣だった。
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18月下旬
上杉謙信は1万3千ほどの兵で信濃へ入り、武田方の海津城を見下ろす妻女山に陣を取った。武田信玄も2万の兵で駆けつけ、海津城に入った。両軍は千曲川をはさんで、半月あまりにらみ合った。
29月9日 夜
信玄は軍を二つに分けた。高坂昌信・馬場信春らの別働隊1万2千が妻女山の背後に回って上杉軍を攻め、山から追い落とす。信玄の本隊8千は千曲川を渡って八幡原で待ち、下りてきた上杉軍を挟み撃ちにする。啄木鳥が木をつついて虫を追い出すのになぞらえた策と伝わる。
39月9日 深夜
海津城から立ちのぼる炊事の煙がいつもより多いのを見て、謙信は武田軍が動くと見抜いたという。上杉軍は深夜、馬の口を縛って音を立てずに妻女山を下り、雨宮の渡しで千曲川を越えた。甘粕景持の隊を渡しに残して、八幡原の霧の中へ進んだ。
49月10日 午前6時頃
夜明けとともに霧が晴れると、待ち伏せるはずの武田本隊の目の前に、上杉軍の大軍が陣を組んでいた。謙信は休む間を与えず、柿崎景家を先頭に攻めかかった。次々に新手を繰り出すこの攻め方は、のちに「車懸り」と呼ばれる。
5午前7時頃
数で劣る武田本隊は押しまくられた。信玄の弟で、家中の信望を集めていた武田信繁が討死し、老将の諸角虎定も倒れた。啄木鳥の策を立てたとされる山本勘助は、責任を取るように敵中へ斬り込み、討死したと伝わる。
6午前8時頃
上杉勢は信玄の本陣にまで迫った。白い頭巾の騎馬武者が床几に座る信玄に三太刀斬りつけ、信玄は軍配で受け止めた――という謙信と信玄の一騎打ちの話は、この場面のこととして語り継がれている。
7午前10時頃
空になった妻女山に驚いた武田の別働隊は、山を駆け下りて千曲川を渡り、八幡原へ急いだ。殿の甘粕景持が渡しで食い止めるあいだに、挟み撃ちを避けた上杉軍は戦いを切り上げ、犀川を越えて善光寺へ退いた。
8その後
上杉軍は越後へ引き揚げ、武田軍は八幡原に残った。死者は両軍あわせて7千を超えたともいわれ、戦国でも指折りの激戦だった。どちらが勝ったのかははっきりせず、北信濃はそのまま武田の支配が続いた。
武田の別働隊が妻女山の背後へ回るのを、謙信は海津城の炊事の煙から見抜いたと伝わる。待ち伏せるはずの武田本隊は、逆に霧の中から現れた上杉の全軍と、半分の兵で戦うことになった。
朝のうちは上杉軍が押し、武田本隊は崩れる寸前まで追い込まれた。それでも信玄の本陣は持ちこたえ、昼前に1万2千の別働隊が駆けつけると形勢は逆転した。謙信は挟み撃ちになる前に兵を引いた。
武田は信繁ら多くの将を失い、上杉は戦場を明け渡した。謙信はこのあとも出兵をくり返したが、北信濃は武田の支配のまま変わらなかった。戦いの勝ち負けと、戦いの目的を果たせたかどうかは、別に考える必要がある。
越後の大名。毘沙門天を深く信じ、「義」のために戦う武将として語られる。川中島のあとも関東や北陸へ兵を出し続け、1578年、春日山城で急死した。
甲斐の大名。この戦いのあと北信濃を固め、1568年からは駿河へ攻め入って今川領を奪った。1572年に西上作戦を始め、三方ヶ原で徳川家康を破ったが、翌年、陣中で病に倒れて亡くなった。
信玄の弟。兄を支えた名補佐役で、家臣への心得を説いた「武田信繁家訓」でも知られる。八幡原で討死し、敵の上杉方までもがその死を惜しんだと伝わる。
信玄の軍師として『甲陽軍鑑』に描かれ、啄木鳥の策を立てたとされる。長く実在が疑われたが、1969年に「山本菅助」の名が見える信玄の書状が見つかり、実在した人物と考えられるようになった。
上杉家きっての猛将で、この戦いでは先鋒として武田本隊に攻めかかったとされる。
武田の別働隊を率いた一人。のちの『甲陽軍鑑』は、昌信が語ったことをもとにしたとされる。
謙信は1564年にも川中島に出陣したが(第五次)、両軍はにらみ合っただけで兵を引いた。これを最後に、両雄が川中島で戦うことはなかった。信玄は北へ向かうのをやめて南の駿河へ、謙信は関東と越中へと、それぞれの目を向けていく。
信玄の死後、上杉家と武田家は手を結び、謙信の跡を継いだ上杉景勝は、信玄の娘を妻に迎えている。北信濃は武田滅亡の1582年まで武田の支配下にあった。
別働隊で妻女山を突き、山を下りた敵を本隊で挟み撃ちにするという策は、江戸時代初めにまとめられた『甲陽軍鑑』の記述によるものである。同時代の史料では確かめられず、話をおもしろくするための脚色とみる研究者も多い。
謙信が信玄の本陣に斬り込み、信玄が軍配で受け止めたという場面も『甲陽軍鑑』による。上杉方の記録では、斬りつけたのは家臣の荒川伊豆守だったとするものもある。一方で、戦いのあと近衛前久が謙信に宛てた手紙には、謙信が自ら太刀をふるって戦ったことをたたえる言葉があり、謙信が最前線で戦ったこと自体はあったと考えられている。
『甲陽軍鑑』は、午前は上杉の勝ち、午後は武田の勝ちとしている。討ち取った首の数を挙げて互いに勝ちを主張しており、決め手になる史料はない。武田が北信濃の支配を守った点から武田の勝ちとする見方、多くの将を失った点から上杉の勝ちとする見方がある。
上杉軍が夜に千曲川を渡る場面は、江戸時代後期の頼山陽の漢詩「鞭声粛々夜河を過る」で広く知られるようになった。合戦から250年以上のちの作品である。
| 1553年 | 武田信玄が村上義清を追う。第一次川中島の戦い |
|---|---|
| 1555年 | 第二次川中島の戦い。犀川をはさんで200日にわたり対陣 |
| 1557年 | 第三次川中島の戦い(上野原の戦い) |
| 1560年ごろ | 信玄が海津城を築く |
| 1561年閏3月 | 長尾景虎が関東管領を継ぎ、上杉政虎と名乗る |
| 1561年9月10日 | 第四次川中島の戦い(八幡原の戦い) |
| 1564年 | 第五次川中島の戦い(塩崎の対陣) |
| 1573年4月 | 武田信玄が死去 |
| 1578年3月 | 上杉謙信が死去 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 上杉謙信総大将 | 約8,000 | |
| 柿崎景家 | 約3,000 | |
| 直江景綱(小荷駄) | 約1,000 | |
| 甘粕景持 | 約1,000 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 武田信玄総大将 | 約4,000 | |
| 武田信繁 | 約1,500 | 討死・壊滅 |
| 山本勘助 | 約800 | 討死・壊滅 |
| 諸角虎定 | 約800 | 討死・壊滅 |
| 穴山信君 | 約900 | |
| 別働隊(高坂昌信・馬場信春ら) | 約12,000 |
決め手
上杉勢は信玄の本陣にまで迫った。白い頭巾の騎馬武者が床几に座る信玄に三太刀斬りつけ、信玄は軍配で受け止めた――という謙信と信玄の一騎打ちの話は、この場面のこととして語り継がれている。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「戦国勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:『甲陽軍鑑』、平山優『川中島の戦い』(学研M文庫)