運命の分かれ目
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1548年12月19歳
兄に代わって越後の主に
長尾為景の子に生まれ、寺に預けられて育った。兄の晴景では国内の争いを収められず、家臣たちに推されて19歳で長尾家を継いだ。2年後には越後をほぼまとめた。
武田信玄に追われた信濃の村上義清らが、助けを求めて越後に逃れてきた。
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1553年8月24歳
第一次川中島の戦い
村上義清らを助けるため、はじめて信濃の川中島に出陣し、武田信玄と戦った。ここから12年にわたる川中島の戦いが始まる。同じ年、京にのぼって後奈良天皇と将軍に会った。
1559年にも再び上洛し、将軍の足利義輝から関東管領の上杉家を継ぐことを許された。
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1561年3月32歳
小田原城を囲み、関東管領に
関東の諸将10万をこえる軍を率いて、北条氏康の小田原城を囲んだ。城は落とせなかったが、鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉家を継ぎ、関東管領となった。名も上杉政虎と改めた。
関東から戻るとすぐ、信玄の動きを抑えるため川中島に向かった。
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1561年9月32歳
第四次川中島の戦い
妻女山に陣を敷き、霧にまぎれて山を下りて、八幡原で武田の本隊を襲った。武田信繁らを討ち取る激戦となったが、別働隊が戻った武田軍に押し返され、決着はつかなかった。
その後は北条・武田と争いながら、越中・能登に兵を進めた。1576年、信長と対立し、本願寺と手を結んだ。
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1577年9月48歳
手取川の戦い
能登の七尾城を落としたあと、加賀の手取川で柴田勝家らの織田軍を破った。「聞いていたより、信長は弱いようだ」と言ったという話が伝わる。翌年3月、次の出陣を前に春日山城で倒れ、亡くなった。49歳だった。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
史料にある
自らを毘沙門天の化身と信じた
毘沙門天を深く信仰し、軍旗に「毘」の字を掲げた。出陣の前には毘沙門堂にこもったと伝わる。
諸説
敵の信玄に塩を送った
今川・北条に塩の道を断たれた武田に、謙信が塩を送ったという話は、江戸時代になって広まった逸話。同時代の史料では確かめられない。
諸説
川中島で、信玄と一騎打ちをした
軍記物の名場面で、確かな史料にはない。ただ、関白の近衛前久が、謙信が自ら太刀をふるって戦ったことをたたえる手紙を送っており、謙信が最前線で戦ったことは確かとみられる。
後世の創作
謙信は女性だった
昭和になって小説家が唱えた説で、根拠とされる記録の読み方にも無理がある。研究者の間では支持されていない。
諸説
厠(トイレ)で倒れて亡くなった
倒れた場所は史料によって異なる。大酒飲みだったことから、脳の病気だったとする見方が多い。
数字で見る謙信
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
主役のバトン
謙信が死んだあと
長尾・上杉氏の勢力は、謙信が死んだ時点で地図の上の3地域。10年後には2地域。死んだ時点の長尾・上杉氏の地域は、10年後には前田氏が2地域を支配していた。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。家臣の大名の領地は、独立するまで主家の色で示しています。
同じ時代、世界では
謙信が生まれたころの世界
- 1521年アメリカコルテスがアステカ王国を滅ぼす
- 1522年世界マゼラン艦隊が世界一周
- 1526年インドインドにムガル帝国が成立
- 1533年アメリカピサロがインカ帝国を滅ぼす
謙信が出てくる合戦絵巻
略年譜(戦国勢力図の出来事から)
参考
- 矢田俊文『上杉謙信』(ミネルヴァ日本評伝選)