合戦絵巻 ─ 戦国勢力図

厳島の戦い

1555年10月1日(天文24年) / 安芸国 厳島

9月21日

誘いこまれた大軍

1粒=約100人

1555年(天文24年)10月1日、安芸国の厳島(いまの広島県廿日市市の宮島)で、毛利元就の軍が陶晴賢の大軍を破った。嵐の夜に海を渡った元就は、狭い島に陣取った陶軍を背後の山から襲い、晴賢を自害に追い込んだ。安芸の一国人にすぎなかった毛利家が、中国地方の覇者へとのし上がるきっかけとなった戦いである。

上の観戦プレイヤーでは、兵を1粒=100人、船を1粒=1艘で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

毛利軍
約4,500・船200艘
陶軍
約2万
いつ
9月21日 → その後

なぜ戦ったのか

中国地方の西半分を治めていたのは、周防の大内家だった。1551年、大内家の重臣・陶晴賢は、主君の大内義隆を攻めて自害させ(大寧寺の変)、大友家から養子を迎えて大内義長として立て、自らが実権を握った。

安芸の国人だった毛利元就は、はじめは晴賢に従っていたが、1554年に手を切った。とはいえ、大内家の兵力は毛利の何倍もある。元就は、正面からぶつかっては勝てないと考えていた。

元就は厳島の海辺に宮尾城を築いた。島は瀬戸内海の交通の要で、ここを押さえられると大内方は困る。1555年9月、晴賢は2万ともいわれる大軍を船で島へ渡し、宮尾城を囲んだ。大軍が動きにくい狭い島へ誘いこむ――それが元就の狙いだったといわれる。

合戦の経過

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19月21日

誘いこまれた大軍

主君の大内義隆を討って大内家の実権を握った陶晴賢に、毛利元就は反旗をひるがえした。晴賢は2万ほどの大軍を船で厳島に渡し、元就が島に築いた宮尾城を囲んだ。わざと攻めやすい小城を置いて、大軍を狭い島に誘いこむ――それが元就の狙いだったといわれる。

29月30日 夕刻

暴風雨の渡海

元就は、来島・能島の村上水軍の味方を取りつけると、嵐をついて出陣を命じた。暴風雨の中、元就・隆元・元春の本隊は島の裏手の包ヶ浦へ、小早川隆景の隊は海上を回って厳島神社の正面へ向かった。

310月1日 未明

博奕尾越え

包ヶ浦に上がった元就の本隊は、たいまつも持たずに夜陰の山道をよじ登り、陶軍の本陣・塔の岡を見下ろす博奕尾の尾根にたどり着いた。陶軍は、嵐の夜に敵が来るとは思っていなかった。

410月1日 午前6時頃

背後からの奇襲

夜明けを合図に、元就の本隊が鬨の声をあげて博奕尾を駆け下り、塔の岡の陶本陣に背後から襲いかかった。同時に、正面の海から小早川隆景が上陸し、宮尾城の兵も打って出た。狭い島に詰めこまれた2万の陶軍は、身動きがとれないまま大混乱に陥った。

5朝

陶軍の総崩れ

陶軍の兵は我先に浜へ逃げたが、乗ってきた船は村上水軍に追い払われていた。海に飛びこんで溺れる者も多かった。弘中隆包は殿として踏みとどまり、山中の龍ヶ馬場で3日にわたって戦ったすえに討死した。

610月1日

陶晴賢の自害

晴賢は島の西の浜づたいに逃げたが、船は見つからなかった。大江浦まで来たところで逃げきれないと悟り、自害した。35歳だったという。

7その後

中国の覇者へ

元就はその勢いで大内領の周防・長門に攻め入り(防長経略)、1557年には大内義長を自害させて大内家を滅ぼした。安芸の一国人にすぎなかった毛利家は、やがて中国地方の大半を治める大大名となる。

勝敗を分けたもの

戦場の選び方

平地で大軍とぶつかれば、数の少ない側は押しつぶされる。山と海に囲まれた狭い島では、2万の大軍もかえって身動きがとれなかった。数の差を打ち消す場所に敵を引き入れたことが、最大の勝因である。

嵐の夜の渡海

9月30日の夕方、海は荒れていた。元就は「このような天気だからこそ敵は油断している」として出陣を命じたと伝わる。陶軍は、毛利軍が夜のうちに島の裏手に上陸したことに気づかなかった。

海を押さえた水軍

瀬戸内の村上水軍が毛利方についたことで、陶軍は逃げ道の船を失った。島に閉じこめられた陶の兵は、討たれるか、海に飛びこむしかなかった。

主な武将とその後

毛利元就毛利軍

59歳。この勝利のあと大内領を攻め取り、のちに出雲の尼子家も滅ぼして、中国地方10か国を治める大大名となった。1571年、75歳で亡くなった。

小早川隆景毛利軍

元就の三男で、小早川家を継いだ。水軍を率いて陶軍の正面から上陸した。のちに豊臣政権の五大老の一人となる。

吉川元春毛利軍

元就の次男で、吉川家を継いだ猛将。父とともに博奕尾を越えて陶本陣を襲った。弟の隆景と並び「毛利の両川」と呼ばれ、毛利家を支えた。

陶晴賢陶軍

大内家の重臣で、主君を倒して実権を握った。大軍を率いて厳島に渡ったが、元就に敗れて自害した。35歳だったという。

弘中隆包陶軍

陶方の武将。島に渡ることに反対したとも伝わる。敗戦のなか最後まで抵抗し、山中で討死した。

合戦のあと

厳島は島そのものが神とされる聖地だった。元就は戦いのあと、血で汚れた島の土を削り取らせ、死者を対岸に運ばせたうえで、厳島神社に社殿の修理や寄進を重ねたと伝わる。

元就はこの勢いで周防・長門に攻め入り(防長経略)、1557年には大内義長を自害させて大内家を滅ぼした。その後、出雲の尼子家とも戦い、1566年に月山富田城を落として、中国地方の大半を手に入れた。

諸説と論点

宮尾城は「おとり」だったのか

元就が晴賢を島に誘いこむため、わざと宮尾城を築き、重臣に偽りの内通の手紙を書かせた――という筋書きは、江戸時代の軍記『陰徳太平記』などで語られたものである。元就が島をめぐる戦いを望んでいたことは確かだが、どこまでが計算された策だったかには議論がある。

陶軍は本当に2万だったのか

「陶軍2万、毛利軍4千」という数字も軍記物によるもので、陶軍はもっと少なかったとする見方もある。それでも陶軍のほうが大軍だったことは間違いない。

村上水軍はいつ味方したのか

毛利方には、小早川隆景の水軍に加えて、伊予の来島村上家が加わったとされる。村上水軍が戦いの直前まで態度を決めず、来るかどうかわからないまま元就が出陣した――という話も伝わっている。

関連年表

1551年9月大寧寺の変。陶晴賢が大内義隆を自害させる
1554年5月毛利元就が陶晴賢と手を切る
1555年春元就が厳島に宮尾城を築く
1555年9月陶軍が厳島に渡り、宮尾城を囲む
1555年10月1日厳島の戦い。陶晴賢が自害
1555年10月弘治に改元
1557年4月大内義長が自害し、大内家が滅ぶ
1566年11月月山富田城が落ち、尼子家が降る

両軍の陣容

毛利軍約4,500・船200艘

部隊兵力その後
毛利元就・隆元・吉川元春総大将約2,500勝利
小早川隆景約1,500
宮尾城の守備兵約500
村上水軍約200艘

陶軍約2万

部隊兵力その後
陶晴賢総大将約12,000討死・壊滅
弘中隆包約3,000討死・壊滅
三浦房清ら約5,000敗走

決め手

背後からの奇襲

夜明けを合図に、元就の本隊が鬨の声をあげて博奕尾を駆け下り、塔の岡の陶本陣に背後から襲いかかった。同時に、正面の海から小早川隆景が上陸し、宮尾城の兵も打って出た。狭い島に詰めこまれた2万の陶軍は、身動きがとれないまま大混乱に陥った。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人(船は1艘)を表します。この合戦は「戦国勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:香川正矩・宣阿『陰徳太平記』、『棚守房顕覚書』