運命の分かれ目
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1523年7月27歳
27歳で毛利家を継ぐ
次男に生まれ、早くに両親を亡くした。兄とその子が相次いで亡くなり、27歳で毛利家を継いだ。そのころの毛利家は、大内氏と尼子氏という大国にはさまれた、安芸の小さな国人の一つにすぎなかった。
尼子氏から離れて大内氏に付き、次男を吉川家、三男を小早川家に養子に入れて、安芸の有力な家を味方にしていった。
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1541年1月45歳
吉田郡山城の戦い
尼子氏の3万の大軍に居城の吉田郡山城を囲まれた。4か月にわたって城を守り抜き、大内氏の援軍とともに尼子軍を退けた。この勝利で、元就の名は中国地方に知られた。
1551年、大内家の重臣の陶晴賢が主君の大内義隆を討った。元就ははじめ陶に従ったが、やがて対決を決めた。
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1555年10月59歳
厳島の戦い
陶晴賢の2万の大軍を、狭い厳島に引き寄せた。嵐の夜に島へ渡って陶の陣を背後から襲い、晴賢を自害に追い込んだ。兵の数で大きく劣る毛利軍の、奇襲による大勝だった。
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1557年4月61歳
大内氏を滅ぼす(防長経略)
陶晴賢を失った大内家に攻め込み、周防・長門を手に入れた。同じ年、3人の息子に、兄弟が力を合わせるよう説いた長い手紙「三子教訓状」を書いた。
次に、出雲の尼子氏との戦いに力を注いだ。
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1566年11月70歳
尼子氏の月山富田城を開城させる
尼子氏の本拠の月山富田城を兵糧攻めで囲み、開城させた。これで中国地方の大半が毛利のものとなった。5年後の1571年、75歳で亡くなった。後継ぎの輝元を、吉川元春・小早川隆景の2人の叔父が支える体制が残された。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
後世の創作
「三本の矢」の教え
死の床で3本の矢を束ねて見せ、兄弟の結束を説いたという話は、後の時代に作られたもの。元就が亡くなったとき、長男の隆元はすでに亡くなっていた。
史料にある
息子たちに、兄弟の結束を説いた
1557年に3人の息子に書いた「三子教訓状」が残っている。毛利家を大事にすること、兄弟が力を合わせることなどを、14か条にわたって長々と書いている。
諸説
厳島に、わざと城を築いて陶をおびき寄せた
厳島の宮尾城をおとりにして陶の大軍を狭い島に誘い込んだとする話は、後の軍記物で強調されたもの。元就の作戦が初めからどこまで計算されていたかには議論がある。
史料にある
酒をひかえるよう、くり返し説いた
父や兄が酒のために早く亡くなったとして、自分は酒を慎み、子や孫にも飲みすぎないよう手紙で注意している。
数字で見る元就
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
主役のバトン
元就が死んだあと
毛利氏の勢力は、元就が死んだ時点で地図の上の10地域。10年後には11地域。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。家臣の大名の領地は、独立するまで主家の色で示しています。
同じ時代、世界では
元就が生まれたころの世界
- 1492年アメリカコロンブスがアメリカ大陸に到達
- 1498年インドヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達
元就が出てくる合戦絵巻
略年譜(戦国勢力図の出来事から)
参考
- 岸田裕之『毛利元就』(ミネルヴァ日本評伝選)