運命の分かれ目
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1583年4月24歳
賤ヶ岳の戦い
近江の生まれで、少年のころから秀吉に仕えた。賤ヶ岳の戦いでは、敵情を探り、先駆けとして働いたと記録にある。ただし三成の本領は、戦場よりも、兵糧や物資の手配、領地の検地などの仕事にあった。
秀吉が天下を取ると、五奉行の一人として政治と財政をになった。太閤検地を進め、九州平定のあとは博多の町の復興も手がけた。
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1590年6月31歳
忍城の水攻め
小田原征伐で、武蔵の忍城を攻めた。堤を築いて水攻めにしたが、堤が切れるなどして城は落ちず、小田原城が降るまで持ちこたえられた。この戦いが「戦下手」といわれるもとになった。
1595年、近江の佐和山城主(19万石)となった。朝鮮出兵では奉行として渡海し、現地の武将たちとの間に深いみぞができた。
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1599年3月40歳
七将に襲われ、隠居
秀吉に続いて前田利家が亡くなると、加藤清正・福島正則ら7人の武将が三成を襲おうとした。三成は難を逃れたが、家康の仲裁で奉行を辞め、佐和山城に退いた。
家康が会津の上杉攻めに向かったすきに、大谷吉継らと語らい、毛利輝元を総大将に立てて兵を挙げた。
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1600年9月41歳
関ヶ原の戦い
美濃の関ヶ原で、西軍として家康の東軍と戦った。はじめは互角に戦ったが、小早川秀秋の寝返りで大谷吉継の隊が崩れ、西軍は一日で敗れた。三成は伊吹山に逃れたが、捕らえられた。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
後世の創作
寺の小僧のとき、秀吉に茶を3杯出して取り立てられた(三献茶)
最初はぬるい茶をたっぷり、次に少し熱い茶、最後に熱い茶を少しと、相手に合わせて出したという話は、江戸時代の逸話集に見えるもの。
諸説
「大一大万大吉」の旗印
三成の旗印として知られるが、三成が使ったことを示す確かな史料は少ない。
後世の創作
処刑の前、「柿は痰の毒」と言って断った
最後まで命を惜しんだ話として江戸時代の逸話集に見える。
諸説
忍城の水攻めの失敗は、三成のせいだった
水攻めは、秀吉が細かく指示していたことを示す書状が残っている。三成は秀吉の方針に従っていたとみられる。
諸説
人に嫌われた冷たい奸臣だった
徳川の世になってから、家康に逆らった悪人として描かれた。一方で、領地の佐和山では善政をしいたとして慕われたとも伝わる。
数字で見る三成
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
盟友
主役のバトン
三成が死んだあと
羽柴・豊臣氏の勢力は、三成が死んだ時点で地図の上の7地域。10年後には3地域。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。家臣の大名の領地は、独立するまで主家の色で示しています。
同じ時代、世界では
三成が出てくる合戦絵巻
略年譜(戦国勢力図の出来事から)
参考
- 中野等『石田三成伝』(吉川弘文館)