運命の分かれ目
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1536年6月18歳
花倉の乱で家を継ぐ
今川氏親の子に生まれたが、家を継ぐ立場になく、寺に入っていた。兄の氏輝が急死すると、異母兄の玄広恵探と家督を争い(花倉の乱)、勝って今川家を継いだ。僧の太原雪斎が、生涯の師として支えた。
翌年、武田信虎の娘を妻に迎えて武田と結んだため、北条と戦うことになった。
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1549年11月31歳
三河を手に入れる
三河の松平家を保護下に置き、その跡継ぎの竹千代(のちの徳川家康)を人質として駿府で育てた。織田方の安祥城を落とし、捕らえた織田信広(信長の兄)と竹千代を交換した。三河は今川の支配下に入った。
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1554年3月36歳
甲相駿三国同盟
武田信玄・北条氏康と、互いの子どうしを結婚させて同盟を結んだ。背後の心配がなくなり、西の尾張に目を向けることができるようになった。この前年には、分国法「今川仮名目録」に新しい条文を加えている。
1558年ごろ、家督を子の氏真にゆずったが、実権は持ち続けた。
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1560年5月42歳
桶狭間の戦い
2万をこえる大軍で尾張に攻め込み、織田方の砦を次々に落とした。しかし、桶狭間で休んでいた本陣を織田信長の軍に襲われ、討ち取られた。42歳だった。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
諸説
公家かぶれで、お歯黒をした軟弱な大名だった
お歯黒や輿に乗ることは、当時の高い身分の武家の作法だった。駿河・遠江・三河を治め、検地や分国法の整備を進めた有能な大名だったと、今は評価されている。
史料にある
輿に乗って出陣した
『信長公記』に、義元が塗りの輿に乗っていたことが書かれている。輿は、足利一門の名門の当主だけに許された乗り物だった。
諸説
京へのぼる途中だった
天下を取りに京へ向かっていたという見方は、江戸時代以降に広まった。今は、尾張との国境の争いを決着させることが目的だったとする説が有力。
諸説
「海道一の弓取り」と呼ばれた
東海道一の大名という意味のこの呼び名は、後の時代の書物に見えるもので、当時そう呼ばれていたかは確かでない。
数字で見る義元
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
主役のバトン
義元が死んだあと
今川氏の勢力は、義元が死んだ時点で地図の上の2地域。9年後には、今川氏の色の地域はなくなった。死んだ時点の今川氏の地域は、9年後には武田氏が1地域、松平・徳川氏が1地域を支配していた。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。家臣の大名の領地は、独立するまで主家の色で示しています。
同じ時代、世界では
義元が生まれたころの世界
- 1517年ヨーロッパルターの宗教改革
- 1521年アメリカコルテスがアステカ王国を滅ぼす
- 1522年世界マゼラン艦隊が世界一周
- 1526年インドインドにムガル帝国が成立
義元が出てくる合戦絵巻
略年譜(戦国勢力図の出来事から)
参考
- 太田牛一『信長公記』
- 小和田哲男『今川義元』(ミネルヴァ日本評伝選)