運命の分かれ目
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1542年8月49歳
主君の土岐頼芸を追い、美濃を奪う
美濃の守護の土岐氏に仕えて力をのばし、主君の土岐頼芸を追い出して、美濃の実権を握った。稲葉山城を本拠とした。追放の年には、1542年のほか1552年とする説もある。
頼芸を助ける尾張の織田信秀(信長の父)と戦った末、和睦した。
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1553年4月60歳
正徳寺の会見
「うつけ」と評判の娘婿・信長と、尾張の正徳寺で会った。道中ではだらしない格好だった信長が、正装で現れ、整った鉄砲隊を連れていたのを見て、「わが子たちは、あのうつけの門前に馬をつなぐことになるだろう」と言ったと『信長公記』は伝える。
1554年ごろ、家督を子の義龍にゆずって出家し、「道三」と名乗った。しかし、ほかの息子をかわいがる道三と義龍の仲は悪くなった。
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1556年4月63歳
長良川の戦い
子の義龍が兵を挙げ、ほかの息子2人を殺した。道三は長良川で義龍の大軍と戦ったが、多くの家臣が義龍についたため敗れ、討ち取られた。信長は助けに向かったが、間に合わなかった。
義龍は5年後に病死した。信長は孫の龍興を攻め、1567年に稲葉山城を落として美濃を手に入れた。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
諸説
油売りから、一代で美濃の主にのし上がった
近江の六角氏の古文書から、美濃で地位を築いたのは父の代からで、親子2代で国を奪ったとする説が有力になっている。
史料にある
正徳寺の会見で、信長の器量を見抜いた
『信長公記』に、道三が信長を見て「わが子たちは、あのうつけの門前に馬をつなぐことになるだろう」と言ったとある。
諸説
死の前に、美濃を信長にゆずるという書状を書いた
「国譲り状」とされる書状が伝わるが、本物かどうかには議論がある。
後世の創作
「美濃のマムシ」と呼ばれた
主君を次々に倒した生き方から付けられたあだ名で、当時そう呼ばれていた記録はない。
数字で見る道三
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
家族
主役のバトン
道三が死んだあと
斎藤氏の勢力は、道三が死んだ時点で地図の上の1地域。12年後には、斎藤氏の色の地域はなくなった。死んだ時点の斎藤氏の地域は、12年後には織田氏が1地域を支配していた。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。家臣の大名の領地は、独立するまで主家の色で示しています。
同じ時代、世界では
道三が生まれたころの世界
- 1492年アメリカコロンブスがアメリカ大陸に到達
- 1498年インドヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達
略年譜(戦国勢力図の出来事から)
参考
- 太田牛一『信長公記』
- 横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興』(戎光祥出版)