合戦絵巻 ─ 幕末・明治維新 勢力図

会津戦争・白虎隊鶴ヶ城籠城戦

1868年8月21日〜9月22日(慶応4年・明治元年) / 陸奥国 会津若松

8月21日

母成峠の突破

1粒=約100人

1868年(慶応4年・明治元年)8月から9月にかけて、陸奥国の会津若松(いまの福島県会津若松市)で、会津藩が新政府軍を相手に1か月にわたる籠城戦を戦った。飯盛山で自刃した白虎隊や、薙刀で戦った娘子隊、スペンサー銃を手にした新島八重らの物語で知られる。戊辰戦争の中でも、とりわけ多くの悲劇を生んだ戦いである。

上の観戦プレイヤーでは、新政府軍—と会津藩約5,016の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

新政府軍
—
会津藩
約5,016
いつ
8月21日 → 結果

なぜ戦ったのか

会津藩主の松平容保は、幕末に京都守護職として京の治安を守り、新選組を配下に置いて尊王攘夷派の志士を取りしまった。そのため、長州藩などからは深く恨まれていた。

1868年1月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、新政府は会津藩を「朝敵」とした。会津藩は謝罪の道を探ったが受け入れられず、奥羽越の諸藩は奥羽越列藩同盟を結んで会津藩を支えようとした。

しかし新政府軍は東北へ攻め進み、同盟の諸藩は次々に降伏していった。会津藩は主力を白河口や越後口に出していたが、8月21日、新政府軍は手薄だった東の母成峠を破り、会津若松へなだれこんだ。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

18月21日

母成峠の突破

会津藩は主力を白河口や越後口に出していたため、東の母成峠の守りは手薄だった。板垣退助・伊地知正治らの新政府軍約3000がここを破り、会津若松へ向かった。

28月22日

戸ノ口原の戦い

猪苗代湖から流れ出る日橋川の十六橋で食い止めようと、白虎隊など少年や老人の部隊まで送り出されたが、雨の中で新政府軍の銃火に押し戻された。

38月23日

城下への突入・白虎隊の最期

新政府軍は滝沢峠を越えて城下になだれ込んだ。武家屋敷では多くの家族が自刃した。敗れて飯盛山に逃れた白虎隊士中二番隊は、城下の煙を見て城が落ちたと思い込み、19人が自刃した(1人が救われ、のちに様子を伝えた)。鶴ヶ城は門を閉ざし、籠城戦が始まった。

48月25日〜26日

娘子隊と彼岸獅子の入城

中野竹子らの娘子隊は薙刀を手に涙橋で戦い、竹子は銃弾に倒れた。翌日、山川大蔵の部隊は、囲みを破るため彼岸獅子の笛と太鼓で行列を装い、堂々と城に入った。城内では新島八重もスペンサー銃を手に戦った。

59月14日〜

小田山からの砲撃

新政府軍は城を見下ろす小田山にアームストロング砲などを据え、昼夜を問わず城に砲弾を撃ち込んだ。天守閣は穴だらけになり、城内には負傷者があふれた。

69月22日

鶴ヶ城の開城

同盟諸藩が次々に降伏し、援軍の望みは絶たれた。1か月の籠城の末、会津藩は白旗を掲げて降伏した。「泣血氈」と呼ばれる緋毛氈の上で、降伏の式が行われた。

7結果

会津戦争のその後

会津藩の戦死者は約3000人とされ、多くの藩士の家族も命を落とした。会津藩は下北半島の斗南藩に移され、厳しい寒さと飢えに苦しんだ。戦死者の埋葬すら長く許されなかったと伝えられ、深い傷を残した。

勝敗を分けたもの

守りの手薄なところを突かれた

会津藩は、新政府軍が南の白河口から攻めてくると考えて兵を出していた。新政府軍の板垣退助・伊地知正治らは、意表をついて母成峠を越え、わずか2日で城下へ迫った。

武器の差

会津藩も洋式の軍備を進めていたが、多くの兵はまだ古い銃や刀槍で戦っていた。新政府軍はアームストロング砲などの新しい大砲を持ち、城を見下ろす小田山から昼夜の別なく砲弾を撃ちこんだ。

援軍のない籠城

籠城は援軍が来てこそ意味を持つ。米沢藩・仙台藩など同盟の諸藩が次々に降伏し、会津藩は完全に孤立した。城内には負傷者があふれ、1か月で降伏に追いこまれた。

主な武将とその後

松平容保会津藩

会津藩主。京都守護職として孝明天皇の信頼を得ていたが、戊辰戦争では「朝敵」とされた。降伏後は命を助けられ、のちに日光東照宮の宮司をつとめた。

白虎隊会津藩

16〜17歳の藩士の子でつくった部隊。士中二番隊は戸ノ口原の戦いに敗れて飯盛山へ逃れ、城下の煙を見て19人が自刃した。一人だけ助かった飯沼貞吉が、のちに様子を伝えた。

中野竹子会津藩

薙刀の名手。娘子隊の一人として城下の涙橋の戦いに加わり、銃弾に倒れた。

新島八重会津藩

砲術師範の家の娘。男装してスペンサー銃を手に籠城戦を戦った。のちに同志社を創った新島襄の妻となる。

板垣退助新政府軍

土佐藩の指揮官として会津攻めを率いた。会津の武士だけが戦い、民衆が逃げ出したのを見て、身分を超えて国を守る仕組みの必要を感じたといわれ、のちの自由民権運動につながったと語られる。

山川大蔵(浩)会津藩

会津藩の家老。彼岸獅子の行列を装って新政府軍の囲みの中を堂々と通り、城に入った。明治になってからは陸軍の軍人となった。

合戦のあと

9月22日、会津藩は降伏し、鶴ヶ城は開城した。籠城と城下の戦いで、会津藩では藩士の家族も含めて多くの人が命を落とした。戦いのあと、会津藩は下北半島の斗南へ移され、寒さと飢えに苦しんだ。

戊辰戦争はこのあと、箱館の五稜郭にこもった榎本武揚らの旧幕府軍との戦いへ移り、1869年5月に終わった。会津の人々の新政府への複雑な思いは、その後も長く残った。

諸説と論点

白虎隊はなぜ自刃したのか

「城が燃えていると見て、落城したと思いこんだ」というのが広く知られた話である。生き残った飯沼貞吉の証言では、城が落ちていないことはわかっていたが、城に戻ることもできず、敵に捕まって恥を受けるより自刃を選んだ、と伝えられている。

戦死者の埋葬

戦いのあと、会津藩士の遺体は長く埋葬を許されなかったと伝えられてきた。近年、戦いのすぐあとに埋葬が行われていたことを示す記録も見つかり、見直しが進んでいる。

関連年表

1862年松平容保が京都守護職となる
1868年1月鳥羽・伏見の戦い。戊辰戦争が始まる
1868年5月奥羽越列藩同盟が結ばれる
1868年8月21日母成峠の戦い
1868年8月23日新政府軍が城下に突入。白虎隊が飯盛山で自刃
1868年9月8日明治に改元
1868年9月22日会津藩が降伏し、鶴ヶ城が開城
1869年5月箱館戦争が終わる。戊辰戦争の終結

両軍の陣容

新政府軍—

部隊兵力その後
板垣退助(土佐)勝利
伊地知正治(薩摩)勝利
長州・大垣など
アームストロング砲(佐賀藩)

会津藩約5,016

部隊兵力その後
鶴ヶ城(松平容保)総大将籠城 約5,000降伏
白虎隊(士中二番隊)16〜17歳 約40人討死・壊滅
娘子隊(中野竹子ら)討死・壊滅
山川大蔵の隊

決め手

小田山からの砲撃

新政府軍は城を見下ろす小田山にアームストロング砲などを据え、昼夜を問わず城に砲弾を撃ち込んだ。天守閣は穴だらけになり、城内には負傷者があふれた。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「幕末・明治維新 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:星亮一『会津落城』(中公新書)、野口信一『会津藩』(現代書館)