合戦絵巻 ─ 幕末・明治維新 勢力図

田原坂の戦い

1877年3月4日〜20日(明治10年) / 熊本県 田原坂

2月22日〜

熊本城の包囲

1粒=約100人

1877年(明治10年)3月4日から20日まで、熊本県の田原坂(いまの熊本市北区植木町)で、西郷隆盛の薩軍と政府軍が17日間にわたって激しく戦った。降りつづく雨の中、政府軍は膨大な弾を撃ちこみ、ついに坂を突破した。日本最後の内戦となった西南戦争の、最大の激戦である。

上の観戦プレイヤーでは、政府軍約4,000と薩軍(西郷軍)約1.3万、あわせて約1.7万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

政府軍
約4,000
薩軍(西郷軍)
約1.3万
いつ
2月22日〜 → 結果

なぜ戦ったのか

明治維新を成しとげた西郷隆盛は、1873年、朝鮮への使節派遣をめぐる争い(明治六年の政変)に敗れて政府を去り、鹿児島へ帰った。鹿児島では西郷を慕う若い士族たちが私学校をつくり、政府への不満を強めていた。

廃刀令や秩禄処分で、士族は特権を次々に失っていた。各地で士族の反乱が起き、1877年1月、政府が鹿児島の武器や弾薬を運び出そうとすると、私学校の生徒たちが弾薬庫を襲った。西郷はついに兵を挙げることになった。

2月、1万3千の薩軍は鹿児島を出て、政府軍の熊本鎮台がこもる熊本城を囲んだ。しかし鎮台司令長官の谷干城はよく守り、城は落ちなかった。薩軍の一部は北へ向かい、南下してくる政府の援軍を田原坂で食い止めようとした。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

12月22日〜

熊本城の包囲

鹿児島を出た薩軍は熊本城を囲んだ。しかし鎮台司令長官谷干城の籠城で城は落ちず、薩軍の一部は北上して、南下する政府軍の援軍を田原坂で食い止めることにした。

23月4日

田原坂の攻防が始まる

熊本城へ向かう大砲を通せる道は、この切り通しの坂しかなかった。政府軍は坂の下から攻め上がったが、両側の高みに陣取った薩軍の銃撃と斬り込みに阻まれた。

33月11日〜

雨の中の激戦

「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂」。降り続く雨で薩軍の旧式の銃は湿気に弱く、政府軍は1日に32万発もの弾を撃ったと伝えられる。空中で弾同士がぶつかった「行き合い弾」も見つかっている。

43月14日〜

抜刀隊の投入

薩軍の斬り込みに対抗するため、政府軍は剣術に優れた警視隊(元士族の警官)から抜刀隊をつくって投入した。旧会津藩士の姿もあったといわれる。

53月20日

田原坂の突破

雨の早朝、政府軍は総攻撃をかけ、17日間持ちこたえた田原坂をついに突破した。薩軍は植木方面へ退いた。

64月14日

熊本城の解放

八代に上陸して南から迫った衝背軍が熊本城に入り、約50日に及んだ包囲が解かれた。薩軍は人吉へ退き、以後は九州南部を転戦していく。

7結果

田原坂の戦いの結果

田原坂の戦いでは、両軍合わせて数千人の死傷者が出たとされる。徴兵された平民の兵が士族の精鋭に勝ったことは、武士の時代の終わりを示した。西郷隆盛は9月24日、鹿児島の城山で自決した。

勝敗を分けたもの

大砲を通せる唯一の道

福岡から熊本へ大砲や物資を運べる道は、田原坂の切り通しの坂道しかなかった。坂の両側の高みに陣取った薩軍は、細い道を上ってくる政府軍を銃撃と斬り込みで押し返した。

弾の量

政府軍は1日に30万発以上の弾を撃ったともいわれる。雨の中で、湿気に弱い旧式の銃しかない薩軍は不利だった。坂からは、空中でぶつかり合った「行き合い弾」が見つかっている。

兵の補給

薩軍は戦えば戦うほど兵と弾が減っていったが、政府軍は全国から兵と物資を送りこむことができた。17日間の激戦のすえ、消耗した薩軍の守りはついに破られた。

主な武将とその後

西郷隆盛薩軍(西郷軍)

薩摩藩出身の維新の英雄。西南戦争では薩軍の総大将にかつがれた。田原坂の敗戦のあと九州各地を転戦し、9月24日、鹿児島の城山で自決した。

谷干城政府軍

土佐藩出身の陸軍軍人で、熊本鎮台の司令長官。50日あまりにわたって熊本城を守りぬき、薩軍の北上を食い止めた。

抜刀隊政府軍

薩軍の斬り込みに対抗するため、剣術にすぐれた警察官(警視隊)を集めてつくられた部隊。旧会津藩士も多く加わっていたといわれ、戊辰戦争の恨みを晴らす戦いだったとも語られる。

合戦のあと

田原坂を突破されたあとも薩軍は抵抗を続けたが、4月14日、八代に上陸した政府軍の別動隊が熊本城に入り、包囲は解かれた。薩軍は人吉・宮崎へと退き、九州南部を転戦した。

9月、西郷は鹿児島に戻って城山にこもったが、9月24日の総攻撃で自決し、西南戦争は終わった。これ以後、士族が武器を取って反乱を起こすことはなくなり、政府への批判は言論による自由民権運動へと移っていく。

諸説と論点

「雨は降る降る」

「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂」は、民謡「田原坂」の一節として知られる。戦いのあとにつくられた歌で、雨の中の激戦の記憶を今に伝えている。

徴兵の兵が士族に勝った

政府軍の多くは、徴兵令で集められた農民や町人出身の兵だった。士族の精鋭である薩軍に勝ったことは、武士でなくても近代の軍隊で戦えることを示した、とよく語られる。ただし、政府軍にも多くの士族出身の将校や兵がいたことは忘れてはならない。

関連年表

1873年10月明治六年の政変。西郷隆盛が政府を去る
1876年廃刀令・秩禄処分。各地で士族の反乱
1877年2月薩軍が鹿児島を出発し、熊本城を囲む
1877年3月4日〜20日田原坂の戦い
1877年4月14日熊本城の包囲が解かれる
1877年9月24日西郷隆盛が城山で自決し、西南戦争が終わる

両軍の陣容

政府軍約4,000

部隊兵力その後
熊本城(谷干城)総大将熊本鎮台 約4,000勝利
政府軍 第1・第2旅団
政府軍の砲兵
抜刀隊(警視隊)
衝背軍(八代から)

薩軍(西郷軍)約1.3万

部隊兵力その後
西郷隆盛総大将薩軍 約13,000敗走
薩軍(田原坂の守り)敗走
薩軍(抜刀隊)敗走
薩軍(吉次峠)
薩軍(熊本城包囲)敗走

決め手

田原坂の突破

雨の早朝、政府軍は総攻撃をかけ、17日間持ちこたえた田原坂をついに突破した。薩軍は植木方面へ退いた。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「幕末・明治維新 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:小川原正道『西南戦争』(中公新書)、猪飼隆明『西南戦争』(吉川弘文館)