運命の分かれ目
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1858年11月31歳
月照と海に身を投げる
藩主の島津斉彬に見いだされて、江戸や京で働いた。しかし斉彬が急死し、安政の大獄で追われる僧の月照を守りきれず、ともに錦江湾に身を投げた。西郷だけが助かり、藩は西郷を奄美大島に隠した。
1862年に呼び戻されたが、斉彬の弟の久光と衝突して、再び徳之島・沖永良部島に流された。1864年に許され、禁門の変で長州軍を退けた。
1867年、大久保利通・岩倉具視らと、武力で幕府を倒す準備を進めた。
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1868年1月41歳
鳥羽・伏見の戦いと江戸無血開城
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を破り、東征軍の参謀として江戸に迫った。総攻撃の前日、幕府の勝海舟と会って話し合い、江戸城を戦わずに明け渡させた。
戊辰戦争のあとは故郷に帰ったが、呼び戻されて新政府に加わり、廃藩置県を実現させた。岩倉使節団の留守中の政府を預かった。
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1873年10月46歳
明治六年の政変
朝鮮との国交を開くため、自らが使節として行くことを求めた。いったんは決まったが、使節団から戻った大久保利通や岩倉具視の反対でくつがえり、西郷は政府を去って鹿児島に帰った。
鹿児島で私学校をつくり、若い士族を教えた。政府の廃刀令などに、士族の不満は高まっていった。
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1877年2月50歳
西南戦争
私学校の生徒たちが政府の弾薬庫を襲ったことから、西郷は兵を率いて熊本城を攻めた。田原坂などで政府軍と激しく戦ったが敗れ、9月、鹿児島の城山で最期を迎えた。50歳だった。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
諸説
上野の銅像は、本人に似ていない
除幕式のとき、妻の糸が「うちの人はこんな人ではなかった」と言ったと伝わる。西郷の確かな写真は1枚も見つかっておらず、肖像は弟や親類の顔をもとに描かれた。
諸説
朝鮮を武力で攻めよと主張した(征韓論)
西郷が求めたのは、まず自分が使節として朝鮮に行くことだった。攻めることが本当のねらいだったかどうかには、研究者の間で議論がある。
史料にある
月照とともに海に身を投げた
1858年、安政の大獄で追われた僧の月照と錦江湾に身を投げ、西郷だけが助かった。
後世の創作
城山で死なず、ロシアに逃れた
西郷の死を信じたくない人々の間で、生きのびたという噂が広まった。1891年にロシアの皇太子が来日したとき、西郷も一緒に帰ってくるという噂が流れた。
数字で見る西郷
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
主君
盟友
主役のバトン
同じ時代、世界では
西郷が出てくる合戦絵巻
略年譜(幕末維新勢力図の出来事から)
参考
- 家近良樹『西郷隆盛』(ミネルヴァ日本評伝選)