運命の分かれ目
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1853年6月18歳
江戸で黒船を見る
剣術修行のため江戸に出て、北辰一刀流の千葉道場に入った。その年、ペリーの黒船が浦賀に来た。龍馬は品川の警備に動員され、父への手紙に「異国の首を打ち取って帰国する」と書いた。
土佐に戻ったのち、武市半平太の土佐勤王党に加わった。
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1862年3月27歳
土佐藩を脱藩する
藩をあげて攘夷を進めようとする土佐勤王党のやり方に限界を感じ、27歳で藩を抜けた。脱藩は重い罪だった。江戸で幕臣の勝海舟を訪ね、その弟子になった。斬るつもりで訪ねたという話もある。
勝のもとで神戸海軍操練所の設立を手伝い、航海術を学んだ。
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1865年5月30歳
長崎で亀山社中をつくる
操練所が閉じられると、薩摩藩の支援を受けて長崎で仲間と「亀山社中」(のちの海援隊)をつくった。船で物を運び、商売をしながら、政治の仕事も請け負う組織だった。
薩摩の名義で長州に武器や船を買い入れ、対立していた両藩の仲立ちをした。
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1866年1月31歳
薩長同盟
京の薩摩藩邸で、薩摩の西郷隆盛・小松帯刀と長州の木戸孝允が手を結んだ。龍馬はその場に立ち会い、木戸の求めで、同盟の内容を書いた手紙の裏に朱で保証の言葉を書いた。直後に伏見の寺田屋で幕府の役人に襲われ、手に傷を負った。
1867年、土佐藩の後藤象二郎と結び、将軍が政権を朝廷に返す「大政奉還」の道を探った。10月、将軍慶喜は大政奉還を行った。
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1867年11月32歳
近江屋で暗殺される
京の近江屋で、中岡慎太郎と話しているところを刺客に襲われ、その夜のうちに亡くなった。誕生日と同じ11月15日だったと伝わる。32歳だった。犯人は、のちに京都見廻組の今井信郎が関わったと語っている。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
拠点の移り変わり
- 1
高知
1836年〜1862年(1〜27歳)生まれ育った土佐の城下町。
- 2
江戸
1862年〜1863年(27〜28歳)勝海舟の弟子になった。
- 3
神戸
1863年〜1865年(28〜30歳)海軍操練所で航海術を学んだ。
- 4
長崎
1865年〜1867年(30〜32歳)亀山社中・海援隊の本拠。
- 5
京
1867年〜1867年(32〜32歳)大政奉還のころの活動の場。ここで斬られた。
地図は1866年の勢力図に、拠点の位置を重ねたものです。濃い色が土佐藩の勢力です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
史料にある
薩長同盟の裏書きをした
同盟の内容を確かめるために木戸孝允が書いた手紙の裏に、龍馬が朱で「まちがいない」と書いたものが残っている。
諸説
新しい国の形を「船中八策」にまとめた
長崎から京へ向かう船の中で書いたとされるが、原本も写しも当時のものは見つかっておらず、後の時代にまとめられたものとする見方が強い。
史料にある
「日本を今一度せんたくいたし申候」
姉の乙女にあてた手紙に書かれた言葉。手紙は今も残っている。
諸説
妻のお龍と、日本で初めての新婚旅行をした
寺田屋の傷を癒やすため、お龍と薩摩の霧島などを旅した。ただ、「日本初」かどうかは確かめようがなく、小松帯刀のほうが先だったとする説もある。
後世の創作
暗殺の黒幕は薩摩藩だった
薩摩・土佐・紀州などを黒幕とする説がいくつも唱えられてきたが、確かな根拠はない。京都見廻組の今井信郎が、のちに関わったことを語っている。
数字で見る龍馬
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
盟友
主役のバトン
龍馬が死んだあと
土佐藩の勢力は、龍馬が死んだ時点で地図の上の1地域。4年後には、土佐藩の色の地域はなくなった。死んだ時点の土佐藩の地域は、4年後には明治新政府が1地域を支配していた。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
龍馬が生まれたころの世界
- 1840年中国アヘン戦争(〜1842年)
略年譜(幕末維新勢力図の出来事から)
参考
- 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書)
- 知野文哉『「坂本龍馬」の誕生』(人文書院)