運命の分かれ目
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1862年5月24歳
上海で見た清の姿
吉田松陰の松下村塾で学び、久坂玄瑞と並んで「双璧」と呼ばれた。藩の命で上海に渡り、アヘン戦争に敗れた清の人々が、外国人に使われている姿を見て強い危機感を持った。
帰国すると、仲間とともに品川の外国公使館の焼き討ちに加わった。
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1863年6月25歳
奇兵隊をつくる
長州藩が下関で外国船を砲撃し、反撃されて大きな被害を受けると、藩の命を受けて「奇兵隊」をつくった。武士だけでなく、農民や町人も入れる、身分を問わない軍隊だった。
1864年、禁門の変と四国艦隊の攻撃で長州は追いつめられた。高杉は四国艦隊との講和の交渉をまかされた。
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1864年12月26歳
功山寺で兵を挙げる
幕府に従う保守派が藩の実権を握ると、下関の功山寺で、わずか80人ほどの兵で立ち上がった。やがて奇兵隊などの諸隊が続き、保守派を破って、藩の方針を倒幕へと変えた。
1866年の薩長同盟で、長州は薩摩と手を結んだ。
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1866年6月28歳
第二次長州征討で幕府軍を破る
幕府が大軍で長州を攻めると、海軍を率いて小倉口で戦い、幕府軍を退けた。幕府の権威は大きく傷ついた。しかしこのころ、高杉の体は肺の病(結核)に冒されていた。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
史料にある
奇兵隊は、身分を問わずに兵を集めた
武士以外の農民・町人も入れたのは本当。ただ、隊の中の身分の区別がすっかりなくなったわけではなかった。
諸説
「おもしろきこともなき世をおもしろく」が辞世
晋作の句として知られ、下の句「すみなすものは心なりけり」は看病した野村望東尼が付けたとされる。死の直前に詠んだものかどうかには異説がある。
諸説
三味線を弾き、粋に遊んだ
三味線を好んだという話が多く伝わる。破天荒な人物として、後世の小説やドラマで強調された面もある。
数字で見る高杉
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
盟友
主役のバトン
高杉が死んだあと
長州藩の勢力は、高杉が死んだ時点で地図の上の4地域。5年後には、長州藩の色の地域はなくなった。死んだ時点の長州藩の地域は、5年後には明治新政府が4地域を支配していた。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
高杉が生まれたころの世界
- 1840年中国アヘン戦争(〜1842年)
- 1848年ヨーロッパヨーロッパ各地で革命(1848年革命)
参考
- 一坂太郎『高杉晋作』(文春新書)