運命の分かれ目
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1864年6月32歳
池田屋事件を逃れる
吉田松陰に学び、江戸の剣術道場の塾頭もつとめた。京で長州藩の代表として動いていたが、新選組が池田屋を襲った夜、会合に早く着きすぎていったん外に出ていたため、難を逃れたと伝わる。
翌月の禁門の変で長州は敗れ、京を追われた。桂は但馬の出石に身を隠した。
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1866年1月34歳
薩長同盟
長州の実権を握った高杉晋作らに呼び戻され、藩の政治の中心となった。坂本龍馬の仲立ちで京の薩摩藩邸に入り、西郷隆盛らと同盟を結んだ。名を木戸孝允と改めたのは、この前年のこと。
第二次長州征討で、長州は幕府軍を退けた。
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1868年3月36歳
五箇条の御誓文
新しい政府の方針を示す五箇条の御誓文で、もとの案に手を入れて「広く会議を興し、万機公論に決すべし」とした。天皇が神々に誓う形をとることも、木戸の考えだったとされる。
版籍奉還、そして廃藩置県を進めた。
1874年の台湾出兵に反対して政府を去ったが、のちに戻った。体を病みがちになった。
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1877年5月45歳
西南戦争のさなかに病死
西南戦争のさなか、京で病が重くなり亡くなった。45歳だった。最期に「西郷、もういいかげんにせんか」と言ったと伝わる。西郷はその4か月後、大久保は翌年に亡くなり、維新の三傑はわずか1年のうちに世を去った。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
諸説
「逃げの小五郎」と呼ばれた
剣の腕は確かだったが、斬り合いを避けて逃げのびたことから、こう呼ばれたと伝わる。生きのびたからこそ維新を見届けられた。
諸説
芸者の幾松にかくまわれた
京で幕府に追われたとき、のちに妻となる芸者の幾松が助けたという話が知られる。細かな場面は後の脚色が多い。
史料にある
五箇条の御誓文に手を入れた
由利公正・福岡孝弟がつくった案に、木戸が修正を加えたことが、残された草案からわかる。
諸説
「西郷、もういいかげんにせんか」が最期の言葉
病床でうわごとのように言ったと伝わる。
数字で見る木戸
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
盟友
主役のバトン
同じ時代、世界では
木戸が生まれたころの世界
- 1840年中国アヘン戦争(〜1842年)
略年譜(幕末維新勢力図の出来事から)
参考
- 松尾正人『木戸孝允』(吉川弘文館)