運命の分かれ目
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1862年7月26歳
将軍後見職となる
水戸藩主の徳川斉昭の七男に生まれ、一橋家を継いだ。将軍の跡継ぎ争いで大老の井伊直弼に敗れ、謹慎させられたが、桜田門外の変のあと許された。薩摩の島津久光らの働きかけで、若い将軍家茂を補佐する将軍後見職となった。
京にとどまり、朝廷と幕府の間を取り持った。1864年の禁門の変では、自ら御所の守りを指揮した。
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1866年12月30歳
15代将軍となる
第二次長州征討の最中に家茂が亡くなると、渋ったうえで将軍を継いだ。フランスの力を借りて、軍隊や政治の仕組みを大きく改めた。木戸孝允は「家康の再来を見るようだ」と警戒した。
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1867年10月31歳
大政奉還
土佐藩の勧めを受け、二条城に重臣を集めて、政権を朝廷に返すと決めた。薩摩・長州の武力倒幕の名目を奪い、新しい政府の中で徳川が力を持ち続けるねらいだったとみられる。
しかし12月、王政復古の大号令で、慶喜は新しい政府から外され、官位と領地を返すよう求められた。
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1868年1月32歳
鳥羽・伏見の戦いと江戸への退去
旧幕府軍が京に進もうとして、鳥羽・伏見で薩長の軍と戦い、敗れた。慶喜は大坂城の兵を残して、夜のうちに船で江戸へ帰ってしまった。江戸では新政府に従う姿勢をとり、上野の寛永寺にこもって謹慎した。
4月、江戸城は戦わずに明け渡された。慶喜は水戸、ついで駿府(静岡)に移った。
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1869年9月33歳
静岡で「趣味の人」に
謹慎を解かれたあとも30年近く静岡で暮らし、写真・狩猟・自転車・油絵などの趣味に打ち込んだ。のちに東京に移り、公爵となった。1913年、77歳で亡くなった。江戸幕府の将軍の中で最も長く生きた。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
史料にある
鳥羽・伏見の戦いのさなか、兵を置いて江戸へ逃げ帰った
「最後の一兵になっても戦う」と言った夜に、側近と少数の供だけを連れて大坂城を抜け出し、軍艦で江戸に帰った。理由については、朝敵とされるのを避けたかったなど諸説ある。
諸説
「家康の再来」と恐れられた
木戸孝允がそう言って警戒したと伝わる。慶喜の改革は、倒幕派にとって大きな脅威だった。
諸説
豚肉が好きで「豚一さま」と呼ばれた
一橋家の豚肉好きの殿さまという意味で、そう呼ばれたと伝わる。
史料にある
晩年は写真に熱中した
静岡の景色などを撮った写真が多く残っており、写真の雑誌に投稿もしていた。
数字で見る慶喜
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
家臣
主役のバトン
同じ時代、世界では
慶喜が生まれたころの世界
- 1840年中国アヘン戦争(〜1842年)
慶喜が出てくる合戦絵巻
略年譜(幕末維新勢力図の出来事から)
参考
- 家近良樹『徳川慶喜』(吉川弘文館 人物叢書)
- 松浦玲『徳川慶喜』(中公新書)