運命の分かれ目
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1862年4月33歳
島津久光の側近として京へ
藩主の父として実権を握った島津久光に近づき、囲碁の相手をきっかけに取り立てられた。久光が兵を率いて上洛すると、側近として朝廷や幕府との交渉にあたった。
島流しになっていた西郷を呼び戻すよう、久光に願い出た。
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1867年12月38歳
王政復古の大号令
岩倉具視と組み、薩摩・土佐などの兵で御所を固めて、幕府を廃し天皇を中心とする新しい政府をつくることを宣言させた。その夜の会議で、慶喜に官位と領地を返させることを決めた。
鳥羽・伏見の戦いのあと、都を東京に移す道筋をつけた。
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1871年7月42歳
廃藩置県
木戸孝允・西郷隆盛らと語らい、全国の藩を廃して県を置いた。武士の主従の仕組みが一日で消えた。同じ年の11月、岩倉使節団の副使として、欧米をまわる旅に出た。
イギリスの工場やドイツのビスマルクに会い、国の力を強めるには産業を興すことが先だと考えて帰国した。
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1873年10月44歳
明治六年の政変
留守中の政府が決めた、西郷を朝鮮に送る話に反対し、くつがえした。西郷・板垣退助・江藤新平らは政府を去った。大久保は内務省をつくって自らその長となり、政府の実権を握った。
1874年の佐賀の乱では江藤新平を処刑した。1877年の西南戦争では、幼なじみの西郷と敵味方に分かれた。
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1878年5月49歳
紀尾井坂で暗殺される
西郷の死の翌年、馬車で出勤する途中、東京の紀尾井坂で石川県の士族らに襲われて亡くなった。49歳だった。家には、公共の事業のために使った借金が残っていた。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
諸説
冷たく、私心のない政治家だった
強引な政治で「冷酷」と見られた一方、死後に財産はほとんどなく、公共事業のために借金をしていたことがわかっている。
諸説
暗殺されたとき、西郷の手紙を持っていた
大久保が西郷からの古い手紙を持っていたという話が伝わるが、確かめるのは難しい。
史料にある
囲碁を通じて島津久光に近づいた
久光が囲碁を好むと知って碁を習い、その相手をきっかけに取り立てられたとされる。
数字で見る大久保
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
盟友
主役のバトン
同じ時代、世界では
大久保が生まれたころの世界
- 1840年中国アヘン戦争(〜1842年)
略年譜(幕末維新勢力図の出来事から)
参考
- 毛利敏彦『大久保利通』(中公新書)
- 佐々木克『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館)