合戦絵巻 ─ 幕末・明治維新 勢力図

鳥羽・伏見の戦い

1868年1月3日〜6日(慶応4年) / 山城国 鳥羽・伏見

1月3日 夕方

鳥羽街道の衝突

1粒=約100人

1868年(慶応4年)1月3日から6日にかけて、京都の南の鳥羽と伏見で、薩摩・長州を中心とする新政府軍と、旧幕府軍がぶつかった。兵の数では3倍の旧幕府軍が、「錦の御旗」を掲げた新政府軍に敗れ、将軍だった徳川慶喜は大坂城から江戸へ逃げ帰った。1年半に及ぶ戊辰戦争の始まりである。

上の観戦プレイヤーでは、新政府軍(薩長)—と旧幕府軍約1.5万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

新政府軍(薩長)
—
旧幕府軍
約1.5万
いつ
1月3日 夕方 → 結果

なぜ戦ったのか

1867年10月、15代将軍の徳川慶喜は、政権を朝廷に返した(大政奉還)。慶喜は、新しい政治の中でも徳川家が中心に立てると考えていた。しかし薩摩と長州、それに岩倉具視ら公家は、12月9日に「王政復古の大号令」を出して幕府を廃し、その夜の小御所会議で、慶喜に官職と領地の返上(辞官納地)を求めることを決めた。

慶喜は衝突を避けて京都の二条城から大坂城へ移ったが、旧幕府の兵や会津・桑名の藩士の怒りは収まらなかった。そこへ、江戸で薩摩藩が浪士を使って放火や強盗をくり返していたことに怒った旧幕府方が、12月25日に江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしたという知らせが届いた。

慶喜は「薩摩を討つ」という文書(討薩の表)を掲げ、旧幕府軍を京都へ向かわせた。軍は鳥羽街道と伏見街道の二手に分かれて進み、1868年1月3日、鳥羽街道の小枝橋で、道をふさぐ薩摩軍と向かい合った。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

11月3日 夕方

鳥羽街道の衝突

慶喜の上洛を先導する旧幕府軍が、鳥羽街道の小枝橋で薩摩軍に止められた。「通せ」「通さぬ」の押し問答の末、夕方、薩摩の大砲が火を噴いて戦いが始まった。旧幕府軍は兵の数では3倍だったが、行軍の隊形のままで銃に弾も込めていなかった。

21月3日 夜

伏見の市街戦

砲声を聞いた伏見でも戦闘が始まった。御香宮の高台に据えた薩摩の大砲が伏見奉行所を砲撃し、奉行所は炎上した。会津藩兵と新選組は刀を抜いて斬り込んだが、銃火に阻まれて退いた。

31月4日〜5日

錦の御旗

新政府は仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍とし、天皇の軍であることを示す「錦の御旗」を掲げた。旧幕府軍は「朝敵」となり、兵の士気は大きく揺らいだ。旧幕府軍は淀まで退いた。

41月5日

淀城の門は開かず

旧幕府軍は淀城に入って立て直そうとしたが、淀藩は城門を閉ざした。藩主は老中だったにもかかわらず、新政府に従う道を選んだのである。旧幕府軍はさらに南の橋本へ退いた。

51月6日

津藩の寝返り

橋本で陣を構えた旧幕府軍に、淀川の対岸・山崎の砲台を守っていた津藩が突然砲撃を加えた。味方と思っていた藩の寝返りで、旧幕府軍は総崩れとなった。

61月6日 夜

慶喜、大坂城を脱出

大坂城の慶喜は「最後の一兵まで戦う」と兵を励ましながら、その夜、松平容保らを連れてひそかに城を抜け出し、軍艦開陽丸で江戸へ帰ってしまった。取り残された旧幕府軍は戦う意味を失い、大坂から撤退した。

7結果

鳥羽・伏見の戦いの結果

約5000の新政府軍が約1万5000の旧幕府軍を破った。これを機に西日本の諸藩の多くが新政府側についた。新政府は慶喜追討令を出し、東征軍が江戸へ向かった。1年半に及ぶ戊辰戦争の始まりである。

勝敗を分けたもの

戦う準備ができていなかった旧幕府軍

旧幕府軍は、京都へ「上る」つもりで行軍しており、隊列も縦に長く、銃に弾を込めていない兵も多かった。そこへ薩摩の大砲と小銃が一斉に撃ちかけ、先頭の部隊は混乱した。指揮も統一されていなかった。

錦の御旗

1月4日、新政府は仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍とし、天皇の軍であることを示す「錦の御旗」を掲げた。これで旧幕府軍は「朝敵」とされ、味方になるはずだった藩が次々に新政府側についた。

頼みの藩の離反

旧幕府軍が逃げ込もうとした淀藩は城門を閉ざし、山崎の砲台を守っていた津藩は、旧幕府軍に向かって大砲を撃った。味方だと思っていた藩の離反が、旧幕府軍の敗走を決定的にした。

主な武将とその後

徳川慶喜旧幕府軍

江戸幕府15代将軍。大坂城で兵を励ましながら、1月6日の夜にひそかに城を抜け出し、軍艦開陽丸で江戸へ帰った。江戸に戻ると恭順(新政府に従う姿勢)を示し、上野の寛永寺で謹慎した。明治以降は静岡で趣味に生きたのち公爵となり、1913年に亡くなった。

西郷隆盛新政府軍(薩長)

薩摩藩の指導者。戦いを主導し、その後は東征軍の参謀として江戸へ向かい、勝海舟との会談で江戸城の無血開城を実現させた。

土方歳三旧幕府軍

新選組の副長。局長の近藤勇が負傷していたため、隊を率いて伏見で戦った。刀で斬り込む戦い方が銃と大砲の前に通じないことを痛感し、「これからは刀や槍の時代ではない」と語ったと伝わる。のちに箱館まで戦い続け、1869年に戦死した。

松平容保旧幕府軍

会津藩主で、京都守護職として京の治安を守ってきた。慶喜とともに江戸へ帰ったが、朝敵とされた会津藩は新政府軍に攻められ、この年の秋、会津戦争で降伏した。

仁和寺宮嘉彰親王新政府軍(薩長)

皇族で、征討大将軍として錦の御旗を掲げた。のちに小松宮彰仁親王と名を改め、陸軍の軍人となった。

合戦のあと

慶喜が去った大坂城は旧幕府軍の撤退後に新政府軍に明け渡され、西日本の諸藩の多くが新政府に従った。新政府は慶喜を追討する命令を出し、東征軍が東海道・東山道・北陸道から江戸へ向かった。

3月、西郷隆盛と勝海舟の会談によって江戸総攻撃は中止され、4月に江戸城は戦わずに明け渡された。しかし旧幕府の一部や、東北・北越の諸藩は抵抗を続け、上野戦争・北越戦争・会津戦争を経て、1869年5月、箱館の五稜郭が降伏して戊辰戦争は終わった。

諸説と論点

勝敗を分けたのは「武器の差」だったのか

新式の銃と大砲をそろえた新政府軍が、古い装備の旧幕府軍を破った、と説明されることが多い。しかし旧幕府軍にも、フランス式の訓練を受けて新しい銃を持った歩兵部隊がいた。敗因としては、戦う態勢を取らないまま進軍したことや、指揮の混乱、そして錦の御旗と慶喜の戦意のなさによる士気の低下も大きかったとされる。

「錦の御旗」は本物だったのか

錦の御旗は、岩倉具視らが前もって作らせていたものとされる。天皇の軍の旗という権威が、実際の戦いの結果に大きな影響を与えた例として語られる。

慶喜はなぜ逃げたのか

慶喜が大坂城を捨てた理由については、朝敵となることを避けたかった、フランスの支援を受けて内戦が長引き外国の介入を招くことを恐れた、などさまざまな見方があり、はっきりしない。

関連年表

1867年10月徳川慶喜が大政奉還を行う
1867年12月9日王政復古の大号令。小御所会議で辞官納地が決まる
1867年12月25日旧幕府方が江戸の薩摩藩邸を焼き討ち
1868年1月3日〜6日鳥羽・伏見の戦い
1868年1月6日慶喜が大坂城を脱出し、江戸へ向かう
1868年4月江戸城の無血開城
1868年9月会津藩が降伏
1869年5月箱館の五稜郭が降伏し、戊辰戦争が終わる

両軍の陣容

新政府軍(薩長)—

部隊兵力その後
錦の御旗(仁和寺宮)総大将征討大将軍勝利
薩摩軍(鳥羽口)勝利
薩摩の砲兵
薩摩軍(御香宮)
長州軍勝利

旧幕府軍約1.5万

部隊兵力その後
津藩(山崎の砲台)藤堂家寝返り
見廻組・幕府歩兵敗走
桑名藩敗走
会津藩敗走
新選組(土方歳三)敗走
徳川慶喜(大坂城)総大将旧幕府軍 約15,000敗走

決め手

錦の御旗

新政府は仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍とし、天皇の軍であることを示す「錦の御旗」を掲げた。旧幕府軍は「朝敵」となり、兵の士気は大きく揺らいだ。旧幕府軍は淀まで退いた。

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「幕末・明治維新 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:佐々木克『戊辰戦争 ─ 敗者の明治維新』(中公新書)