合戦絵巻 ─ 幕末・明治維新 勢力図

薩英戦争

1863年7月2日〜4日(文久3年) / 薩摩国 鹿児島湾

6月27日

英艦隊の来航

1粒=約100人

1863年(文久3年)7月2日から4日まで、薩摩藩の鹿児島湾で、薩摩藩の砲台とイギリス艦隊7隻が砲撃戦を戦った。前年の生麦事件をめぐる争いがきっかけである。薩摩は城下や工場を焼かれたが、イギリス艦隊にも旗艦の艦長が戦死するほどの損害を与えた。この戦いをきっかけに、薩摩とイギリスはやがて手を結ぶことになる。

上の観戦プレイヤーでは、兵を1粒=100人、船を1粒=1艘で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

薩摩藩
—
イギリス艦隊
船7艘
いつ
6月27日 → 結果

なぜ戦ったのか

1862年8月、薩摩藩の島津久光の行列が武蔵国の生麦村(いまの横浜市鶴見区)を通っていたとき、馬に乗ったまま行列を横切ろうとしたイギリス人4人を、藩士が斬りつけた。1人が死に、2人が重傷を負った(生麦事件)。

イギリスは幕府に謝罪と賠償金を求め、幕府はこれに応じた。しかし薩摩藩に対しても、犯人の処罰と被害者への賠償金を求めた。薩摩藩はこれを拒んだ。

1863年6月、イギリスはキューパー提督の率いる7隻の艦隊を鹿児島湾に送りこんだ。当時の日本は攘夷の空気が強く、同じころ長州藩も下関で外国船を砲撃していた。

合戦の経過

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16月27日

英艦隊の来航

前年の生麦事件の犯人の処罰と賠償金を求めて、イギリス艦隊7隻が鹿児島湾に入った。薩摩藩は要求を拒んだ。

27月2日 昼

砲撃戦の始まり

英艦隊が薩摩藩の汽船3隻を奪ったため、薩摩の砲台がいっせいに砲撃を始めた。暴風雨の中、各砲台と英艦隊の激しい撃ち合いとなった。

37月2日 午後

旗艦ユーライアラス被弾

砲台の砲弾が旗艦ユーライアラスの艦橋付近に命中し、艦長と副長が戦死した。英艦隊の最新のアームストロング砲は、城下や砲台に大きな被害を与えた。

47月2日〜3日

集成館・城下の炎上

英艦隊は城下の町と集成館を砲撃し、火災が広がった。島津斉彬が築いた工場群は大きな被害を受けた。

57月4日

英艦隊の撤退

弾薬と燃料が乏しくなり、死傷者も多く出た英艦隊は、鹿児島湾を去った。薩摩藩も砲台の多くを壊された。

6結果

薩英戦争のその後

両者とも勝ちを主張したが、薩摩は西洋の軍事力の強さを思い知り、攘夷をやめて近代化へ向かった。11月には講和し、賠償金を幕府から借りて払った。互いの実力を認めた薩摩とイギリスはこの後急速に接近し、のちの倒幕を後押しすることになる。

勝敗を分けたもの

薩摩の砲台

薩摩藩は、藩主だった島津斉彬のころから砲台や大砲の製造を進めていた。湾の各所に置かれた砲台がいっせいに撃ちかけ、旗艦ユーライアラスの艦長と副長を戦死させるほどの損害を与えた。

アームストロング砲

イギリス艦隊には、遠くまで正確に撃てる最新式のアームストロング砲があった。薩摩の砲台の多くはこわされ、城下の町や集成館の工場も燃えた。

嵐

戦いの日は暴風雨で、艦隊は思うように動けなかった。イギリス側も弾薬や石炭が乏しくなり、損害も大きかったため、3日目に鹿児島湾を去った。

主な武将とその後

島津久光薩摩藩

薩摩藩主・島津忠義の父で、藩の実権を握っていた。生麦事件のときの行列の主。この戦いのあと、藩は攘夷から開国・近代化へとかじを切る。

キューパー提督イギリス艦隊

イギリス東インド・中国艦隊の司令長官。艦隊を率いて鹿児島湾に入った。旗艦の艦長を失い、本国の議会でも、城下の町を焼いたことが批判された。

五代友厚薩摩藩

薩摩藩士。戦いの中で寺島宗則とともにイギリス艦隊に捕らえられた。のちに藩の留学生をイギリスへ送る計画を進め、明治には大阪の経済の発展に力を尽くした。

合戦のあと

両者とも勝ちを主張したが、薩摩藩は西洋の軍事力の強さを身をもって知った。この年の11月には横浜で講和が結ばれ、薩摩藩は幕府から借りたお金で賠償金を払った。犯人は「行方不明」として処罰されなかった。

その後、薩摩藩とイギリスは急速に近づいた。1865年には薩摩藩の若者たちがひそかにイギリスへ留学し、イギリスは幕府よりも薩摩・長州に期待を寄せるようになる。攘夷を捨てた薩摩は、1866年に長州と薩長同盟を結び、倒幕へと進んでいった。

諸説と論点

どちらが勝ったのか

薩摩藩は城下と工場を焼かれ、砲台の多くを失った。イギリス艦隊も死傷者60人あまりを出し、艦も傷ついて引き揚げた。どちらとも言いがたい結果で、それぞれが自分の勝ちだと考えた。

薩摩の汽船の拿捕

戦いは、交渉のための人質の代わりとして、イギリス艦隊が薩摩藩の汽船3隻を奪ったことから始まった。薩摩藩はこれを戦いの始まりとみなして砲撃を開始した。

関連年表

1862年8月生麦事件
1863年5月長州藩が下関で外国船を砲撃
1863年6月27日イギリス艦隊が鹿児島湾に来る
1863年7月2日〜4日薩英戦争
1863年11月横浜で講和が結ばれる
1865年薩摩藩の留学生がイギリスへ渡る
1866年1月薩長同盟

両軍の陣容

薩摩藩—

部隊兵力その後
集成館炎上
祇園之洲砲台勝利
新波止砲台炎上
天保山砲台勝利
桜島の砲台
鹿児島城下(島津久光)総大将炎上

イギリス艦隊船7艘

部隊兵力その後
ユーライアラス(旗艦)キューパー提督敗走
パール
アーガス・レースホースなど計7隻

決め手

旗艦ユーライアラス被弾

砲台の砲弾が旗艦ユーライアラスの艦橋付近に命中し、艦長と副長が戦死した。英艦隊の最新のアームストロング砲は、城下や砲台に大きな被害を与えた。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人(船は1艘)を表します。この合戦は「幕末・明治維新 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:萩原延壽『遠い崖 ─ アーネスト・サトウ日記抄』(朝日文庫)