今の中野市
長野盆地の北東部にある市です。高社山と千曲川の間に広がり、夜間瀬川がつくった扇状地には果樹園が、南部には延徳田んぼと呼ばれる水田が広がります。農業が盛んで、えのき茸やぶどう、りんご、シャクヤクの産地です。江戸時代には中野陣屋が置かれ、明治の初めには中野県の県庁がありました。中山晋平と高野辰之のふるさとでもあります。
今の中野市の区域の人口は、2020年の国勢調査で42,338人です。今の区域で数えた1980年の44,985人とくらべると5.9%減り、人口は2000年をピークに減っています。65歳以上の人の割合は32.6%です。
主な産業:えのき茸・ぶどう・りんご・シャクヤクなどの農業
特産品・名産
- えのき茸全国有数の生産量を誇るきのこ
- ぶどう扇状地の果樹園で栽培
- りんご明治37年から続く栽培。市の木
- シャクヤク切花生産が盛んな市の花
- 中野土人形ひな市で展示即売される土人形
見どころ・祭り
- 中野陣屋・県庁記念館中野陣屋と中野県庁の跡に建つ記念館
- 中野ひな市毎年3月下旬。土人形の展示即売
- 一本木公園バラ公園。5月下旬にばらまつり
- 中山晋平記念館作曲家中山晋平の記念館
- 高野辰之記念館「故郷」などの作詞者の記念館
木リンゴ・もみじ花バラ・シャクヤク鳥チョウゲンボウ中野市の木・花・鳥
中野市のなりたち
中野市(なかのし)は、長野県北信地方の市です。今の市の区域には、1920年(大正9年)の時点で、11の町村がありました。倭村・長丘村・科野村・平岡村・日野村・高丘村・平野村・延徳村・永田村・豊井村・中野町です。これらの町村が、3回の合併や編入を経て、今の中野市になりました。
今の名前「中野市」は、1920年にあった中野町の名前を受け継いでいます。ほかの10の町村の名前は、自治体の名前としては消えましたが、地区の名前や学校、駅などに残っていることが少なくありません。
面積は、1920年の中野町が約6km²だったのに対し、今の中野市は約113km²と、およそ20.5倍になりました。
1920年の時点で、この区域の町村は下水内郡・下高井郡に属していました。
「中野市」という名前
市の名は、中心の中野町から受けつぎました。中野は、江戸時代に幕府の領地を治める中野陣屋が置かれた町です。明治の初めには中野県の県庁が置かれ、1870年(明治3年)に中野村は中野町となりました。1954年(昭和29年)に周りの村と合併して市になったときも、中野の名がそのまま市の名前になっています。「中野」という地名の起こりははっきりしていません。
まちの成り立ち
1889年(明治22年)4月1日の町村制で、今の市域には下高井郡の中野町・延徳村・高丘村・平野村・日野村・平岡村・長丘村・科野村・倭村と、下水内郡の豊井村・永田村が生まれました。1894年(明治27年)には、日野村の小田中が中野町に移っています。
昭和の大合併では、1954年(昭和29年)7月1日に中野町と日野・延徳・平野・長丘・平岡・高丘・科野・倭の8村が合併して中野市が発足しました。千曲川の西側では、1956年(昭和31年)9月30日に豊井村と永田村が合併して豊田村が生まれています。平成の合併では、2005年(平成17年)4月1日に中野市と豊田村が合併し、改めて中野市が発足しました。
市は長野盆地の北東部にあり、高社山と千曲川の間に広がります。夜間瀬川の扇状地は水はけがよく、果樹園が広がります。南部には延徳田んぼと呼ばれる水田地帯があります。えのき茸やぶどう、りんご、シャクヤクの生産が盛んです。明治の初めには中野県の県庁が置かれましたが、明治3年12月(1871年)の中野騒動で庁舎が焼け、県庁は長野へ移りました。作曲家の中山晋平と作詞家の高野辰之のふるさとでもあります。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、下高井郡に中野町・延徳村・高丘村・平野村・日野村・平岡村・長丘村・科野村・倭村が、下水内郡に豊井村・永田村が発足した。種類:町村制 出典:Wikipedia
- 1894年4月1日明治27年日野村の一部(小田中)が中野町に編入された。種類:一部編入 出典:Wikipedia
- 1954年7月1日昭和29年下高井郡の中野町・日野村・延徳村・平野村・長丘村・平岡村・高丘村・科野村・倭村が合併し、中野市が発足した。種類:新設合併 出典:www.pref.nagano.lg.jp
- 1956年9月30日昭和31年下水内郡の豊井村と永田村が合併し、豊田村が発足した。種類:新設合併 出典:Wikipedia
- 2005年4月1日平成17年中野市と下水内郡豊田村が合併し、改めて中野市が発足した。種類:新設合併 出典:www.pref.nagano.lg.jp
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。