15月25日 朝
海と陸から
九州から攻め上る足利軍は、直義の陸の大軍と、尊氏の数百艘の船団に分かれて兵庫に迫った。正成は湊川の西の会下山に、義貞は和田岬の近くの海岸に陣を敷いた。
合戦絵巻 ─ 南北朝 勢力図
5月25日 朝
1336年(建武3年、延元元年)5月25日、摂津国の湊川(いまの神戸市)で、九州から攻め上ってきた足利尊氏・直義の大軍を、後醍醐天皇方の新田義貞と楠木正成が迎え撃った。義貞は退き、取り残された正成は、弟の正季と刺し違えて死んだ。尊氏は京に入り、やがて室町幕府を開く。
上の観戦プレイヤーでは、後醍醐天皇方(新田義貞・楠木正成)約1.1万と足利尊氏・直義—の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの5つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
1333年、後醍醐天皇の呼びかけに応じた足利尊氏・新田義貞・楠木正成らによって、鎌倉幕府は滅んだ。後醍醐天皇は天皇みずから政治を行う「建武の新政」を始めたが、恩賞の不公平などから武士たちの不満が高まった。
1335年、北条氏の残党が鎌倉を攻めると(中先代の乱)、尊氏は天皇の許しを得ないまま鎌倉へ向かって乱を鎮め、そのまま新政から離れた。天皇は新田義貞に尊氏を討たせたが、尊氏はこれを破って京へ攻め上った。しかし1336年の初め、北畠顕家・楠木正成・新田義貞に敗れて、九州へ落ちのびた。
九州に渡った尊氏は、多々良浜の戦いで天皇方の菊池氏を破って勢いを取り戻した。さらに持明院統の光厳上皇から院宣(上皇の命令書)を得て、「朝敵」ではなくなった。4月、尊氏は海から、弟の直義は陸から、大軍で京を目指して東へ進んだ。
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15月25日 朝
九州から攻め上る足利軍は、直義の陸の大軍と、尊氏の数百艘の船団に分かれて兵庫に迫った。正成は湊川の西の会下山に、義貞は和田岬の近くの海岸に陣を敷いた。
2昼
尊氏の船団のうち細川定禅の船は、義貞の陣の東の生田の森に回りこんで上陸しようとした。退路を断たれるのを恐れた義貞は、東へ退いた。
3昼
義貞が退いたため、正成は陸と海から囲まれた。正成は16回も突撃をくり返し、直義を危うくするほど戦った。
4夕方
兵が73騎まで減ると、正成は近くの民家に入り、弟の正季と「七たび人間に生まれて朝敵を滅ぼしたい」と誓い合って刺し違えた。
5結果
義貞は京へ退き、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。尊氏は京に入り、北朝を立てて室町幕府を開いた。尊氏は正成の首を丁重に家族へ送り届けたという。正成は後の時代、忠臣の手本として語り継がれた。
足利軍は、直義の陸の軍と、尊氏の船団の二手に分かれて攻めた。海に面した兵庫の地では、船団がどこからでも上陸できたため、守る側は陣の後ろを気にしなければならなかった。
細川定禅の船団が東の生田の森に回り込むと、義貞は退路を断たれることを恐れて東へ退いた。その結果、湊川の西の会下山に陣を敷いていた正成の軍は、敵の中に取り残された。
正成はもともと、この戦いに勝ち目はないと考えていたとされる。わずかな兵で最後まで戦い続け、自ら命を絶った。
河内の武士。千早城の籠城戦などで鎌倉幕府軍を苦しめ、後醍醐天皇の信頼が厚かった。湊川で戦死し、江戸時代以降は忠臣の手本とされた。明治時代には湊川の地に湊川神社が建てられた。
この戦いに勝って京に入り、光明天皇を立てた(北朝)。1338年に征夷大将軍となり、室町幕府を開いた。正成の首を丁重に家族へ送り届けたと伝わる。
上野の武士で、鎌倉を攻め落とした功労者。湊川の後も天皇方の中心として戦ったが、1338年、越前の藤島で戦死した。
尊氏の弟。陸路の軍を率いた。幕府を開いたのちは政務を担ったが、やがて尊氏の執事の高師直と対立し、兄弟で争う観応の擾乱を起こした。
湊川の敗戦で比叡山に逃れた。いったん尊氏と和睦したが、京を抜け出して吉野に移り、自分こそが正しい天皇だと主張した(南朝)。1339年、吉野で亡くなった。
湊川の勝利で、尊氏は6月に京に入った。後醍醐天皇はいったん比叡山に逃れ、秋に尊氏と和睦して京に戻ったが、年末に吉野へ移った。京の北朝と吉野の南朝が並び立つ南北朝時代は、1392年に両朝が一つになるまで、およそ60年続いた。
正成の死は、後の時代に大きな意味を持った。江戸時代、水戸藩主の徳川光圀は湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻んだ墓碑を建て、正成は天皇に尽くした忠臣の手本として語られるようになった。幕末の志士たちも、正成を理想として仰いだ。
『太平記』によれば、正成は「天皇は比叡山に移り、尊氏をいったん京に入れてから兵糧を断って攻めるべきだ」と進言したが、退けられた。また出陣の途中、摂津の桜井の宿で子の正行に「生き残って天皇に尽くせ」と言い聞かせて河内へ帰したという「桜井の別れ」の話も有名である。いずれも『太平記』が伝える話で、どこまで事実かはわからない。
『太平記』は正成の兵を700騎余り、足利方を数十万とするが、足利方の数は大げさに書かれていると考えられている。
正成・正季の兄弟が「七たび人間に生まれて、朝敵を滅ぼしたい」と誓い合ったという話は『太平記』に見える。「七生報国」という言葉は、明治以降、この話をもとに広く使われるようになった。
| 1333年 | 鎌倉幕府が滅ぶ。建武の新政が始まる |
|---|---|
| 1335年 | 中先代の乱。足利尊氏が新政から離れる |
| 1336年1月 | 尊氏が京で敗れ、九州へ落ちる |
| 1336年3月 | 多々良浜の戦い。尊氏が勢いを取り戻す |
| 1336年5月25日 | 湊川の戦い。楠木正成が戦死 |
| 1336年12月 | 後醍醐天皇が吉野に移る(南北朝の始まり) |
| 1338年 | 新田義貞が戦死。尊氏が征夷大将軍となる |
| 1392年 | 南北朝が一つになる |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 楠木正成・正季総大将 | 約700騎 | 討死・壊滅 |
| 新田義貞総大将 | 約1万 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 足利直義(陸路)総大将 | ||
| 少弐頼尚 | ||
| 足利尊氏(海路)総大将 | 船団 | |
| 細川定禅(船団) |
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「南北朝 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:『太平記』、『梅松論』