11348年1月
決戦へ
前年に幕府軍を2度破った楠木正行を討つため、幕府は高師直・師泰の大軍を送った。正行は如意輪寺に辞世の歌を残して出陣した。「かへらじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる」。
合戦絵巻 ─ 南北朝 勢力図
1348年1月
1348年(正平3年・貞和4年)1月5日、河内国の四條畷(いまの大阪府四條畷市)で、楠木正成の子・楠木正行が、足利方の高師直の大軍に挑んで敗れた。正行は師直の首だけを狙って敵陣深く突き進んだが、身代わりの武者に阻まれ、弟の正時と刺し違えて死んだ。父の正成とともに、悲劇の忠臣として語りつがれる戦いである。
上の観戦プレイヤーでは、南朝(楠木正行)約3,000と幕府軍(高師直)—の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの5つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
1336年、足利尊氏は京で光明天皇を立て、後醍醐天皇は吉野へ逃れて別の朝廷を開いた。京の北朝と吉野の南朝、二つの朝廷が並び立つ南北朝時代の始まりである。
湊川の戦いで父の正成を失ったとき、正行はまだ少年だった。成長した正行は南朝の主力として河内で兵を挙げ、1347年には、藤井寺や住吉・天王寺で、細川顕氏・山名時氏らの幕府軍を立て続けに破った。
幕府は、尊氏の執事で最も頼りにされた武将・高師直と、その弟の師泰に大軍を与えて正行の討伐に向かわせた。正行は吉野の後村上天皇に別れを告げ、如意輪寺の扉に辞世の歌を刻んで出陣したと伝わる。
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11348年1月
前年に幕府軍を2度破った楠木正行を討つため、幕府は高師直・師泰の大軍を送った。正行は如意輪寺に辞世の歌を残して出陣した。「かへらじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる」。
21月5日
正行は、大将の師直の首だけを狙い、幕府軍の陣を次々に突き破って北へ進んだ。
31月5日
正行がついに師直の本陣に迫ると、師直の家臣の上山高元が「われこそ師直」と名乗って身代わりとなって討たれた。正行は首を取ったが、それは師直ではなかった。
41月5日
周りを囲まれた正行は、弟の正時と刺し違えて死んだ。23歳ほどだったとされる。
5結果
師直はそのまま吉野に攻め入り、行宮を焼き払った。後村上天皇は奥地の賀名生に逃れた。しかしこの勝利で力を増した師直は、やがて直義と激しく対立し、観応の擾乱へとつながっていく。
正行の軍は3000ほど、師直の軍は数万といわれる。正面から勝てる相手ではなく、正行は大将の師直ひとりを討つことにすべてを賭けた。
正行はついに師直の本陣に迫ったが、師直の家臣・上山高元が「われこそ師直」と名乗り出て討たれた。正行が首を取ったとき、本物の師直は別の場所にいた。
敵陣深くに入りこんだ楠木勢は、やがて四方を囲まれた。疲れ果てた正行は、弟の正時と刺し違えて死んだ。
楠木正成の長男。父の遺志を継いで南朝のために戦い、四條畷で若くして討死した。「小楠公」と呼ばれ、父の「大楠公」とともに、明治以降は忠臣の手本としてたたえられた。
足利尊氏の執事。四條畷で勝ったあと吉野へ攻め入り、南朝の行宮を焼いた。伝統や権威を軽んじる武将として『太平記』に描かれる。のちに足利直義と争い、1351年に殺された。
後醍醐天皇の皇子で、南朝の2代目の天皇。師直に吉野を攻められ、さらに山奥の賀名生へ逃れた。
勝った師直はそのまま吉野へ攻め入り、行宮を焼き払った。後村上天皇は賀名生へ逃れ、南朝はさらに苦しい立場に追いこまれた。
しかし、この勝利で力を増した師直は、尊氏の弟の直義と激しく対立するようになる。1350年、幕府は二つに割れて争う「観応の擾乱」に突入し、その混乱の中で南朝は息を吹き返していく。
湊川の戦いの前、正成が11歳の正行を河内へ帰し、自分の死後も天皇に忠義を尽くすよう言い聞かせた――という「桜井の別れ」は『太平記』の名場面で、戦前の教科書や唱歌でも広く知られた。史実かどうかは確かめられない。
正行の生まれた年ははっきりせず、四條畷で討死したときの年齢も、20代前半とする説が一般的だが確かではない。
如意輪寺の扉に矢じりで刻んだという辞世の歌「かへらじとかねて思へば梓弓 なき数にいる名をぞとどむる」は、『太平記』に見えるもので、正行の悲壮な覚悟を伝える歌として知られている。
| 1336年5月 | 湊川の戦い。楠木正成が自害 |
|---|---|
| 1336年12月 | 後醍醐天皇が吉野へ移る。南北朝の分裂 |
| 1339年8月 | 後醍醐天皇が死去。後村上天皇が即位 |
| 1347年 | 楠木正行が藤井寺・住吉で幕府軍を破る |
| 1348年1月5日 | 四條畷の戦い。楠木正行が討死 |
| 1348年1月 | 高師直が吉野の行宮を焼く |
| 1350年〜1352年 | 観応の擾乱 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 楠木正行・正時総大将 | 約3000 | 討死・壊滅 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 高師直総大将 | 本陣 | |
| 幕府軍 | 敗走 | |
| 幕府軍 | 敗走 | |
| 幕府軍 | ||
| 師直の身代わり | 上山高元 | 討死・壊滅 |
決め手
正行がついに師直の本陣に迫ると、師直の家臣の上山高元が「われこそ師直」と名乗って身代わりとなって討たれた。正行は首を取ったが、それは師直ではなかった。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「南北朝 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:『太平記』、亀田俊和『高師直』(吉川弘文館)